主日の福音12/07/08(No.599)
年間第14主日(マルコ6:1-6)
預言者はどこにいても預言者
聖トマスの霊名のお祝い日以降、またちょっと走り始めています。教会前のバス停から、岬のマリアさまに行く手前の広場まで、6往復して8キロです。ミニバレーの日は半分の4キロ、土日はいろいろあって休もうかなぁと思っています。
走り始めたのはいいのですが、わたしとすれ違って声をかけても、わたしだと分からないおばさんがいて困ります。わたしだと分かるおばさんもいますが、分からない人はこんにちはと声をかけたあとに「どこの兄ちゃんかと思ったよ」と言っています。お願いですから、わたしの姿が完全に見えなくなってから「どこの兄ちゃんかと思ったよ」は言うようにしてください。全部聞こえているんですから。
もちろん、ミサのときに会うわたしの姿形からすれば、半袖半ズボンに、ランニング用の帽子をかぶって「こんにちは」と言われても、「だれかしら」と思うのは無理もありません。ただ、「この兄ちゃんはだれ」と思ったなら、目の前に見えている姿の向こうにある真の姿を見ようとしてください。すると、見えていなかったことが見えるようになります。
たとえば、この昼日中に浜串で走ることができる人は、勤め人ではないはずです。また、走っている最中に名前で人を呼ばず、単にこんにちはと声をかけながら走っているのでしたら、浜串で生まれ育った人ではないでしょう。それらを考え合わせると、もしかしたら神父さんではないだろうか。そう思い当たるはずです。
これから何度かわたしの走る姿を見ることになるお嬢さまがた、真っ赤なシャツを着ていても、鮮やかな青いシャツを着ていても、あるいは上下真っ白を着ていても、「どこの兄ちゃんかしら」と言わずに、見える姿の向こうにある真実を考えるようにしてください。いつまでも「どこの兄ちゃんかしら」で済ませるおばさんは、すぐ頭の衰えが来ますよ。
さて福音書は、イエスが会堂で教え、その姿を見た人々がイエスにつまずいてしまう話です。イエスが授かっている知恵と、その手で行われる奇跡に驚きつつも、周囲の人々はイエスを「どこの兄ちゃんかしら」と思ったわけです。さらに悪いことに、「大工の兄ちゃん、マリアの息子、兄弟親戚もすべて知っているあの兄ちゃんじゃないか」とイエスを決めてかかったのです。
思い込みを持たずにその人を十分理解するのは非常に難しいことです。「あー、あそこのほら、ヨセフの家の大工の兄ちゃん」そう思い込んでしまうと、会堂や神殿の境内で聖書を読み、人々に教えるイエスの姿はまるで別人に見えたことでしょう。別人に見えたイエスの向こうにある真の姿を見ようとしなければ、見えるはずのものが見えないのです。
イエスを理解しようとしない人々に、イエスは次のように言います。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6・4)。ここで言う預言者とは、民の心を神に立ち帰らせるために、神のことばを預かって語る人です。
預言者はいつも、民の心を本来のあるべき姿に戻すために働きました。しかし、民は神の望みよりも自分たちの望みを優先し、神に逆らい続けました。神に立ち帰らせようとする預言者を目障りだと感じ、ことごとく退けてきたのです。
イエスも、父から授かった知恵を語り、奇跡をその手で行いましたが、それはかつての預言者のように、人々の心を父である神に向き直らせるためでした。けれども人々は、自分たちが良い扱いを受けることをイエスに望み、イエスの預言者としての働きを認めなかったのです。自分たちに都合の良いことを話せば歓迎するけれども、神に立ち帰るために厳しい道を説くなら、イエスを拒むのです。
イエスは、人々のこのような態度に驚きました。「人々の不信仰に驚かれた」(6・6)とあります。預言者として働いているイエスを見ても、イエスが自分たちの心を神に立ち帰らせようとしていることに気付きませんでした。会堂で話すイエスの姿を見ても、人々はイエスへの信仰に導かれませんでした。
イエスは、どこにいてもわたしたちを父なる神に向かわせるかたです。イエスがどんな姿をしていても、たとえどんなに弱々しくても、わたしたちを父なる神に向かわせる預言者です。そのことに気がつかず、徴税人や罪人と一緒にいて食事までしている、断食を弟子たちにあまり求めない、安息日に働いているなど、目先のことに人々はつまずいたのです。
司祭がこうしてミサをしている。司祭はミサに参加したわたしたちを、父である神に向かわせようとしている。では司祭はどういう人なのでしょうか。考えてくださると幸いです。わたしも、できるだけ、どこにいても、何をしていても、人を神に結び合わせる働きを忘れないようにしたいと思います。
浜串地区でランニングをしていても、「どこの兄ちゃんかしら」と思われるのではなく、「神父さまはいつまでも良い働きができるように、体づくりをしているのね」と思ってもらえるようになりたいと思います。
どこにいても、何をしていても、イエスはただ一人のイエスであったように、祭壇に立つ中田神父も、ジョギングをしている中田神父も、ただ一人の中田神父と思ってもらえるように、日々精進したいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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