主日の福音12/07/01(No.598)
年間第13主日(マルコ5:21-43)
希望は神の愛によって信仰のうちに芽生える

金曜日に生活習慣病検診を受けてきました。ちょっと苦しい内視鏡検査もありました。おおむね、結果は良好だったのですが、悪玉コレステロールが一昨年から去年にかけて数値が減っていたのに、今年になって極端に増えていました。悪人から善人になりかけていたのですが、また悪人になったかもしれません。

さて今日の福音朗読は、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女のいやしの物語ですが、はっきりしている点があります。それは、人間的には手の施しようがなくなってしまった場面で、イエスは力を発揮してくださったということです。

会堂長のヤイロの娘は、死にそうな状態にあってイエスに願い求め、さらに向かっている途中で亡くなってしまい、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5・35)と周囲の人から言われてしまいました。

イエスの服に触れる女性も、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(5・26)とありますから、人間的にはまったく希望がなかったのです。

それでもイエスは、人間的には希望の持てないところに、希望をもたらしてくださいます。ところで、この希望にあずかった人々には共通するものがありました。それはイエスへの信仰です。

イエスの服に触れる女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と思ったとあります。ヤイロは、苦しんでいる娘に代わって「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)というイエスのことばを信じました。

信仰のあるところに、希望が生まれます。会堂長の家に着くと、人々は大声で泣きわめいて騒いでいました。彼らは信仰を持って出来事を見ることができませんので、希望にあずかることもありません。むしろイエスをあざ笑います。いやしの奇跡が起こっても、人々は驚きのあまり我を忘れた状態で、奇跡がイエスへの信仰に結びつきませんでした。

ここからが肝心です。イエスは、信仰を保った人々に何をしてくださったのでしょうか。イエスの服に触れたのは女性のほうでイエスではありません。会堂長は娘の上に手を置いてくださいと願いましたがイエスは娘の手を取っただけです。

イエスのおこなった一つひとつのしぐさに気を取られずに考えてください。何をしてくださったのでしょうか。イエスは、愛を注いでくださったのです。神の愛こそが、奇跡を起こし、いやしの出来事を起こしてくださるのです。イエスは人々に愛を注ぎます。イエスを信じる人々の上にイエスの愛は実を結び、希望のないところにも希望が生まれます。イエスを信じない人にもイエスの愛は注がれますが、信じない人には実を結ばず、希望に導かれないのです。

ここに、わたしたちの学びがあると思います。信仰と希望と、愛。この3つは、関わり合って働くのです。イエスはすべての人に愛を注がれます。わたしたちからは信仰が必要です。信仰を持ってイエスの愛を受けると、希望が芽生え、生きることができるのです。

わたしたちの生活は、病気や、この世からの別れという悲しみを避けて通れません。それでも、希望のうちに生きていくためには、イエスを信じる信仰が必要なのです。イエスだけが、神の愛を注いでくださって、避けられない出来事の中でも希望を持たせてくださるかただからです。

病気を抱えて生きる人にも、死の危険と隣り合わせの人にも、イエスによって神の愛は注がれています。神の愛が実を結び、希望を持って生きていけるかどうかは、わたしたちの信仰にかかっています。

「イエスはどんなときにも信じるに値するかた。」ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の出来事から、信仰の必要性を確認し、イエスへの信仰に留まる決意を新たにしましょう。神の愛がわたしたちの上に実を結び、生活の中に決して失われない希望が芽生えるよう、ミサの中で願っていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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