主日の福音12/05/20(No.592)
主の昇天(マルコ16:15-20)
あなたの中の喜びを宣べ伝えなさい
浜串教会の3人の小さなマリアさまは、火曜日の夕方5時のミサに来て、休まず侍者をしてくれています。小学1年生が1人、小学2年生が2人の合計3人の小さなマリアさまたちです。夕方5時のミサと言っても、それより1時間前から教会で要理を受け、その後ロザリオの先唱をして、それからミサの侍者を務めてくれています。
今年は、本人たちが3人で喜んで侍者をしているので3人のままで侍者をさせていますが、この3人のうち、教育係の2年生2人は、熱心さのあまり侍者をしている間も1年生に声を出して指導をしておりまして、いろんな声が足もとで聞こえております。
たとえば、杯のカリスにぶどう酒と水を司祭が入れる時は、容器のとってに司祭が指を入れてぶどう酒と水を入れますから、とっての部分を司祭に向けて差し出す必要があります。1年生はまだそこまで理解していませんので何気なく容器を持っているわけですが、「そうじゃなくて、指を入れるところを神父さまに向けるの。違う違う。」おー厳しい指導だねぇと思いながらそのときは様子を見ております。
鈴を鳴らす場面になりますと、まぁ多少タイミングが遅れたりすることは十分予想できるわけで、そういうときに「ほら、今鈴を鳴らして」と指示が飛ぶのは分かるのですが、「もっとていねいに鳴らして」と、ていねいさまで細かい指示が飛んだのには驚きました。わたしは一度も「ていねいに鳴らしなさい」と言ったことはないのですから、どこでそんなことを覚えたのだろうと面白かったり驚いたりしております。
ただ問題は、司祭もミサをささげるのにはリズムとか調子があるわけで、足もとで教育係の指示が飛んでいる中で、気を散らさず、唱える言葉を間違わずにミサを進めていくのは実に至難の業です。たまには唱える言葉が思い出せなくなったり、途中まで唱えていて真っ白になってもう一度最初から唱え直したりして、司祭のほうも自分のリズムを守ろうと必死に闘っていたりするわけです。
わたしはここに至って、この小さなマリアさまたちは小さな子どもなりに福音宣教をしているのだなぁと思うようになりました。今週は主の昇天の祭日で、選ばれたマルコ福音書の朗読箇所には、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)というイエスのご命令が響いています。ただし、イエスの言葉からは、福音として何を宣べ伝えなさいと言っておられるのかは見えてきません。
たとえばマルコ福音書が書かれたのと同じ時期、パウロは地中海沿岸で宣教活動をしていたのですが、パウロははっきりと「十字架のイエスを宣べ伝える」という使命を意識していました。たとえばコリントの信徒への手紙T第1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とありますし、ガラテヤの信徒への手紙第6章14節には、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」とあります。
パウロは、十字架のイエスを徹底して宣べ伝えようとしました。それと比較すると、マルコ福音書からは、福音として何を、伝えるべきなのか見えてこないのです。
でも大丈夫。浜串教会の小さなマリアさまたちは教えてくれています。祭壇のそばでお仕えする喜びを、新入生に教えようと身振り手振り、声を大にしています。主任司祭を通してイエスさまが教えてくださった、祭壇に使える喜びを生き生きと伝える。それが、小学2年生の小さなマリアさまたちにとっての福音宣教なのです。
今、1つの例を挙げました。イエスは誰か手伝ってくれる人を通して、イエスを信じる喜びを全世界に行って宣べ伝えることを願っているのです。何を伝えるかは、それほど問題ではありません。自分が、イエスを信じたことで体験した喜び、イエスに結び合わされて味わった支えや励まし、安心感などを伝えて欲しいのです。
その際、上手下手も関係ないのだと思います。わたしたちは、イエスを信じたことでイエスの弟子となりました。イエスは天に昇って、弟子たちを使って働きます。弟子たちが自力で結果を出すのではありません。あくまでも、弟子たちを使ってイエスが働くのです。ですから、わたしたちはイエスに使ってもらうだけでよいのです。上手でなくても、上等でなくても構わないのです。
「ていねいに鈴は鳴らして」と、わたしが教えてもいないことまで付け加えて侍者の喜びを伝えた小さなマリアさまたちを見ていると、この子たちを通してイエスが働いていることは十分伺えます。教育係の2人の中でイエスが働いて、成長してそのように言ったのではないでしょうか。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(16・17-18)これらのしるしは弟子たちの中でイエスが働いているからこそ可能になります。
わたしたちは、しるしができなければ福音を宣べ伝えることはできないのではないか、しるしがなければ福音を宣べ伝える資格がないのではないかと恐れる必要はありません。わたしたちに、イエスを信じたことで喜びを体験したなら、十分です。
体験したことを、宣べ伝えましょう。必要があれば、あなたの中で働くイエスが、しるしを伴わせてくださいます。あなたの中に伝えることのできる喜びがあるうちに、出かけて行くことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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