主日の福音12/05/13(No.591)
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
イエスの掟を世界に告げ知らせる

今週復活節第6主日の福音朗読はヨハネ15章の9節から17節になっていますが、そのうちの12節から17節が、2日前の金曜日の福音朗読に選ばれていました。木曜日から金曜日というのは中田神父が福見教会の司祭館に泊まって朝を迎える、そういう時間の過ごし方をしている日です。

具体的には、木曜日夕方5時半に福見教会でミサをして、6時過ぎからの小学生高学年のけいこを終えて、晩ご飯食べたらいろいろ持ち込んだ仕事や趣味をごそごそして、眠りに就くわけです。

さてこの前の木曜日から金曜日のことをなぜ取り立てて話しているかと言いますと、実は金曜日の朝ミサに寝坊しまして、ミサが始まる時間に誰かが司祭館のチャイムを鳴らしてようやく起き上がり、ミサをささげに行ったのです。

福見教会に泊まる時は、わたしのケータイの目覚ましは2回に分けてセットしたものが鳴り出すことになっています。1つは5時15分、たいていこれでは起きませんが、もう1つの5時30分ではさすがに飛び起きて準備をしています。司祭館から香部屋まで10mもありませんから、起きさえすればすぐに行くことができます。

ところがこの前は、2回の目覚ましにまったく反応できませんでした。福見教会は5時35分に教会の鐘も鳴ります。わたしのベッドから10mという至近距離でけたたましく鐘が鳴ったはずなのに、その鐘にさえもまったく反応せず、寝込んでいたのです。

それでも、5分前に誰かが鳴らしてくれたチャイムにはビックリして起きまして、申し訳ない思いでミサを始めました。福音のあとの短い説教も、ふだんは少しくらいは準備をするのですが、準備もなく福音朗読に向かったのです。

わたしが言うのも変な話しですが、神さまはいますね。絶対にいます。福音朗読のあとの説教は、準備して話しをする時よりもよほどまともなことを話していました。自分で話しながら、「なるほどなぁ」と思ったくらいです。そういうことで、金曜日に話したことをもう少し膨らませて、今週の福音の学びとしたいと思います。

選ばれた朗読の中で、イエスの次の語り掛けに注目しました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15・12)

イエスは掟を弟子たちに示しました。「掟」ということばは、日本語では「社会の定め、決まり」という意味ですが、聖書の世界での「掟」は、神が人間に与える指示、イエスが弟子たちに与える指示という意味があります。人間の掟を破っても、人間として生きることはできますが、神の掟、イエスの掟を破れば、人間は神との絆、イエスとの関わりを失ってしまい、霊的に死んでしまうのです。

すると、イエスが弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と仰ったのは、たいへん重いことなのだと分かります。互いに愛し合う生き方をしなければ、わたしたちは神との絆、イエスとの絆を失ってしまうのです。

人を、愛する相手として見ること。わたしは、この見方が他のどんな見方よりも人を価値あるものとして見る生き方だと思います。わたしたちはこの世界の人々をいろんな見方で見ています。見知らぬ人、知り合い、友人、親戚、兄弟、家族などです。

その人をどう見るかで、わたしたちは接し方も変えています。見知らぬ人には、それほど親身になることはありませんが、兄弟や家族には、最後まで心配したり面倒を見たりするのです。その中で、愛する人への接し方がいちばん相手を大切にします。イエスは、互いが互いを、愛する人として接する。これを掟として残しました。

それは、人を、最も価値ある見方で見なさいという招きでもあるのです。いちばん相手を大切にする見方、いちばん相手を価値あるものと見る見方を、わたしたちに求めているのです。

実際、イエスさまがそのようにわたしたちを見てくださいました。ある時ファリサイ派の人が、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」(ルカ7・39)という場面がありました。イエスはこの時も、女性をいつものように価値ある人として見てくださいました。

また神殿でファリサイ派の人が祈った時も、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(18・1)と言いましたが、イエスは徴税人を価値あるものとしてくださいました。イエスさまの模範に、わたしたちは謙虚に見倣う必要があります。

わたしたちの生活を振り返ってみましょう。誰か自分よりも劣る人を心の中に置いて、わたしはあの人よりはましだと、自分を慰めてはいないでしょうか。イエスは違う生き方を求めています。あなたが、自分より劣ると思っているその人を愛してあげなさい。自分よりも劣るのではなく、最も価値ある人として接しなさい。そう呼び掛けるのです。

イエスの呼び掛けは守れる人は守ってくださいという呼び掛けではありません。払える人は払ってくださいという指示ではありません。すべての人が、神との絆を失わないために、神の愛にとどまって生きるために、イエスが求めている指示なのです。

わたしは、毎日の生活の中で接しているいろんな人をどのように見ているのでしょうか。いちばん価値のある見方、その人を愛するという態度で、接してみましょう。今までは見落としていたその目の前の人の価値、良い所が発見できるでしょう。そして互いに愛し合う生き方を選ぶなら、わたしたちはイエスと心を通わせる友となれるのです。

今週は、世界広報の日でもあります。イエスが自ら模範を示し、掟として与えた互いに愛し合う生き方、相手を最も価値あるものとして接する生き方を、生活の中で証しして、世界にイエス・キリストを告げ知らせる者となれますように。このミサの中で力を願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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