主日の福音12/05/06(No.590)
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
イエスに信頼し、ただただぶどうの実を付ける

今から21年前の夏の話しです。上五島地区で子どもの集いが開催されまして、上五島備蓄記念会館を会場にミサが行われました。あの時わたしは司祭になる一歩手前の助祭でして、子どもミサの説教を地区の司祭団から依頼されていました。その当時の地区長神父さまは7年前に亡くなった丸尾武雄神父さまでした。

たまたまその年は、福岡の大神学院で秋に開かれる召命の集いに、1000人が集まる野外ミサの説教を担当することになっていました。夏休みにはすでに説教原稿を書いていましたので、上五島地区司祭団から依頼された時は、「度胸試しにいいか」くらいの気持ちで引き受けました。

もともと、野外ミサでの説教のつもりで用意していたので、備蓄会館のような大きな会場にもぴったりでした。実は上五島地区子どもの集いのミサと、大神学院の召命の集いのミサに選ばれた福音の朗読の箇所が、今週朗読された「イエスはまことのぶどうの木」だったのです。

みなさんの中で、21年前の子どもの集いに、子どもを連れて備蓄会館に行った人はいないでしょうか?あるいは子どもとではなくても、「もういいかい?まぁだだよ」と若い助祭が説教で語り掛けていたミサに参加した記憶がないでしょうか。

わたしは当時は25歳とかなり若かったので、とんだりはねたりして説教をしたのです。説教の取っかかりに使ったのはかくれんぼです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(15・5)イエスと弟子たち、イエスと人類とのこの緊張感に満ちた関係をどうやって子どもたちに伝えるか。その取っかかりに、かくれんぼを選んだのです。

ご存じのようにかくれんぼは、「もういいかい」「まぁだだよ」で鬼と隠れている人とが巧みに距離を置いて楽しむものです。ある時は息を潜めて隠れている自分の近くを通り過ぎるかもしれない。ある時はせっかく最高の隠れ場所に入ったのに、違う友だちがやって来て、その友だちのために自分が見つかるかもしれない。生き生きとした緊張感の中で、隠れている人と、探し出そうとする鬼とがつながっている。それが、ぶどうの木であるイエスと、わたしたちとの生き生きとした関係なのだと、ステージいっぱいに動き回りながら話し掛けたわけです。

最後まで、その説教はやりきりました。考えていたことはすべて出し切りましたし、当時としては持てるすべてを出し尽くしました。ところが、ミサが終わってからわたしは、地区長神父さまに叱られまして、あんな説教があるか、だれがこの人に説教を任せたのだと、酷評されたのです。あー、ご年配の神父さまには、ちと刺激が強すぎたかなぁと反省したのでした。

ですが本番は上五島地区の子どもの集いではありません。福岡の大神学院での野外ミサです。九州全域から1000人もの子どもたちが集まり、数多くの司祭も集まり、当時の松永司教さまが司式をなさるミサの中で、まだ司祭になっていない助祭に過ぎないわたしが説教する。これが本番だったわけです。

気を取り直し、11月3日の召命の集いの日までもう一度説教の内容を完全に覚えて、それこそ野外ミサのグランドをいっぱいに使って子どもたちに話し掛けました。説教が終わった時、「やり遂げた」という実感がありました。それを後押しするかのように、会場の子どもたちや保護者がわたしに拍手をくださったのです。説教に拍手が来るなんてそうそう無いことですが、そのときはそういう雰囲気になっていたのでしょう。

無事に、本番の召命の集いのミサ説教が終わった。わたしはそう思いました。ところが、わたしはこの時も、司式された司教さまから説教を酷評されたのです。まるでなってない。説教にあるまじきパフォーマンスだと。この時は本当にうちひしがれました。

この日のために半年掛けて準備したのに、理解されなかった。司祭団の中には理解を寄せてくれる方もいたわけですが、司教さまが公然とあの説教は何だと言っておられるのですから、あえてそれを遮って盾になってくれる司祭はいません。わたしは孤立してしまいました。

あれから長い時間を経て、あらためて考えるわけです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(15・5)そうイエスは仰ったのですが、あの時わたしは、イエスというぶどうの木につながって説教していたのだろうか。それとも、イエスにつながっていないまま、意味の無いパフォーマンスをして終わったのだろうか。

3年前も、同じ答えを探し求めていました。そのときたどり着いた答えを引用したいと思います。21年前の子どもミサと召命の集いの野外ミサに参加した司祭たち、だれもがイエスにつながっている枝だという自覚を持っていたのですが、それぞれの枝が、はじめて説教を任された助祭という別の枝を認めることができないでいたということです。

いろんな理由がそこにはあるかも知れません。今枝を伸ばし始めたあいつに何ができる。わたしたちは何度も枝にぶどうの実を付けてきた者だ。同じ仲間だと言われてもそう簡単には認められない。このような思いが、心のどこかにあったのでしょうか。

問題を複雑にしている原因があるはずです。おそらく原因は1つです。1つの枝から、他の枝を見ているからです。自分という枝から、他の枝を見れば、かなり遠く離れて見える。もしかしたら正反対の方向に伸びているので、全く共通点が見いだせないかも知れません。どうしてこれだけかけ離れている相手を、仲間だと信じられるだろうか。

けれども、わたしたちすべてに聖霊を注ぎ、養っておられるイエスという木から枝を見ることで、見え方は変わってきます。あの枝も、この枝も、もっと言うとすべての枝が、等しくイエスから聖霊を注がれた枝なのです。

わたしという枝から見れば遠く離れているかも知れないその枝も、イエスという木から見たとき、だれもがほぼ同じ距離にあるのです。イエスが注ぐ聖霊の届くところに、すべての枝がつながっているのです。

3年前に思い巡らしたことを読み返して思いました。わたしも、イエスというぶどうの木から聖霊という養分をいただいて説教をしたのだ。枝が伸びた方向は、他の多くの司祭たちと違う方向に伸びていたかもしれない。それでも、神はわたしがいよいよ豊かに実を結ぶように、手入れしてくださったのだと。

わたしたちも、たとえば一つの活動に参加しているある方を見て、自分たちと同じように動いてくれないから、認めたくないと思うことがあるかも知れません。けれども、枝から枝を眺めるのは良い観察の仕方ではないのです。あくまでもぶどうの木であるイエスにつながって相手を観察しましょう。そのとき、違う個性であっても、イエスにつながっている別の枝として認め、理解する道が開けると思います。

互いが互いを認め合い、多くの枝があることを知って、教会にたくさんのぶどうの実が与えられますように。わたしと違う枝であることにこだわるのではなく、違うたくさんの枝を聖霊の賜物で養っておられるイエスのご計画の深さ、広さに信頼できますように。信頼する心を、このミサを通して願い求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
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