主日の福音12/04/29(No.589)
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
イエスはわたしたちのために命を置いてくださる

大型連休に入りました。休み気分で、真面目な話も耳に入らないかもしれませんが、今日は信徒総会も控えていますし、頑張って、説教も聞いているふりをしてください。

「羊もわたしを知っている。」ついこの前の病人訪問の時ですが、家庭でお見舞いを受けているある方が、「病人訪問ご苦労さまです。どうぞこれを飲んでください」と、リポビタンDを冷蔵庫から出してごちそうしてくださいました。

わたしには冷蔵庫はまったく見えていなかったのですが、その方が冷蔵庫を開けて、きちんと扉を閉めなかったのが様子で分かりました。しばらくすると案の定、冷蔵庫がピーピー言っているわけです。幸か不幸か、リポビタンをくれたおばあさんも、付き添いのため一緒にいたもう1人も、冷蔵庫の警告音は聞こえていませんでした。

そこでわたしは親切心を起こしまして、「ばあさん、冷蔵庫がちゃんと閉まっとらんぞ」と教えてあげたわけです。「冷蔵庫がですか?」と本人は言っていましたが、付き添いで一緒にいた人が冷蔵庫を確かめに行くとその通り扉はきちんと閉まっていません。それでその人が扉を閉めますとバタンと音がしまして、リポビタンを出してくれた本人も、ここでようやく扉が閉まってなかったことを理解します。

そこでこのおばあさんがわたしにこう尋ねるわけです。「神父さま、どうして冷蔵庫の扉が閉まってないことが分かるんですか?」まともに答えようかとも思いましたが、それではまったく中田神父らしくないので、中田神父はこういう人間であるということを知らせるために、次のような返事をしました。

「神父は神さまの次に偉いのである。だから、たとえ冷蔵庫が見えなくても、扉を開けっ放しにしていればすぐに分かるのである。」そのおばあさんは目を丸くして、わたしを見ていました。あの顔では、きっとわたしがああいう冗談を言う人間だと、分かってなかったと思います。

今週の福音に入りましょう。わたしの心に響いたのは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)という箇所です。イエスのこのみことばを、まずわたし自身に当てはめて考えてみました。

今、わたしにゆだねられている400人近い浜串小教区の信徒はわたしの羊です。「わたしは自分の羊を知っており」とイエスが言うように、わたしは小教区の一人ひとりをどれだけ知っているだろうか。

司祭が、羊である信徒一人ひとりを知る機会はどれくらいあるのでしょうか。社交的で、どんな場所にでも顔を出す司祭であれば、その才能を発揮してまかせられた羊のことをより多く知ることができるでしょう。ただ、すべての司祭が社交的で、差し出されたものはいっさい拒まないというわけではありません。ちょっと人づきあいが苦手な司祭もいるわけです。わたしもたぶん、そういう部類だと思います。

そんな、人づきあいの才能にそれほど恵まれていない司祭は、限られたチャンスを、一つも見逃さないつもりで、観察する必要があります。一度しか、話しをしないかもしれない。教会で会えればいいけれども、今立っているこの場所でしか、この人とは会えないかもしれない。

それはつまり、出かけた先で、波止場かもしれないし、青方かもしれないし、奈良尾ですれ違う一瞬かもしれません。たぶんその人とは、今この瞬間しか会えないかもしれません。そうであるなら、そのときの印象を忘れないように、そのとき目に留まったことを大切に、心にとどめておく必要があります。そうして、羊飼いとして、ゆだねられた羊を何とか、片面だけでも知ろうと、心にかけているつもりです。

一方でイエスは、「羊もわたしを知っている」と言います。リポビタンの話しではないですが、わたしではなく、違う司祭であれば、違った返事をしたことでしょう。「ああ、こういう返しかたをするのか。だったら、こういう人なのかな。」何かを読み取ることができるのではないでしょうか。

そして羊飼いであるイエスは、羊飼いが本当に羊飼いと言えるかどうかを、次のように結論づけます。「わたしは羊のために命を捨てる。」(10・15)主任司祭が、小教区の信徒のために命を捨てるのでなければ、それは羊飼いとして失格ということです。

「命を捨てる」このギリシャ語を直訳すると、「命を置く」ということになるそうです。これはそのあとに続く「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10・17)にも関係しています。イエスは命を、再び受けるために、「置く」のです。

イエスは羊のために、命を置きました。イエスが命を置いた羊は、イエスが知っている羊ですが、同時にか弱い羊です。全力で導き、全力で守らなければなりません。小教区の信徒を導き、守っているか。わたしに問われています。

何も自信をもって伝えるものがありませんが、最近気付いたことを1つ話します。出張して長崎に泊まったときのことです。わたしは出張した時に、大司教館の小さなチャペルで、ただ一人でミサをささげることがあります。そこには誰もいませんが、ミサをささげながら、必ず皆さんの顔が浮かんでいます。

不思議なもので、誰もいないと、調子が出ないというか、ミサの祈りの言葉もすらすら出てこないのです。それで、ふだん通りのミサのことを思い出してささげますと、ミサの祈りもすらすら出て来ます。そのとき、皆さんの顔がはっきり浮かんでいます。皆さんを思い浮かべ、いつも、どこでもミサをささげています。ずっと、思い続けていますので、時間はかかりますが、羊を知り、羊を守り、導いていけると信じています。

わたしたちの牧者であるイエスが、命を置いて、守り導く姿を、お一人おひとり生活の中で当てはめてみましょう。きっと、今求められていることが何か、はっきりしてくると思います。命を置いて、わたしたちを守り導くイエスに、全面的に従う。ミサの中であらためて確認したいと思います。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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