主日の福音12/04/08(No.586)
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子

あらためて、御復活おめでとうございます。今日の福音朗読は、先に墓に行ったマグダラのマリアの報告を受けて、その後に出かけた弟子たちのことが取り上げられています。シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子が墓に向かったとされています。

ここで「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とあります。もちろん常識的には、使徒ヨハネのことをこう呼んでいるのだと考えるべきです。もちろんその点は踏まえてなのですが、今年わたしは、もっと豊かに、もっと大胆に考えてみたいのです。

「イエスが愛しておられた」という言葉は、とくに使徒ヨハネにふさわしいと思います。イエスの十字架上での最期の場面にも、ほかの弟子はだれも留まりませんでしたが、愛する弟子という呼び方で登場しました。誰がイエスを裏切るかを尋ねたのもこの弟子です。復活し、弟子たちに出現なさった時、「主だ」と声を上げたのも同じ弟子です。イエスから愛されている人でなければ、これほど近くで登場させることはできないと思います。

ただ、イエスが愛しておられたのは、シモン・ペトロも同じです。この弟子をいちばん愛して、別の弟子はそれより少し劣る愛し方をしたとは考えられません。聖木曜日の晩には、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたのですから。

そこで考えるのは、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、イエスを信じ、イエスを愛しているすべての人に当てはめてもよいのではないか、ということです。すなわち、あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子、イエスが愛しておられたもう一人の弟子だということです。

イエスが愛しておられたもう一人の弟子の姿を拾いましょう。シモン・ペトロと一緒に走ったが、「ペトロより速く走って、先に墓に着いた」(20・4)とあります。あなたはまだ若さに自信がありますか。速く走って、イエスに会いに行くために競走できますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

彼は先に墓に着き、身をかがめて中をのぞきましたが、彼は中には入りませんでした。あなたは先に墓についても、責任ある人に最初に墓に入る栄誉を譲る謙虚さがありますか。責任ある人の意見を聞いてから自分の態度を決める慎重さがありますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

あなたは、一緒にイエスのもとについた責任ある人と一緒に、イエスの復活を心から信じてくれますか。神のご計画、神の愛は、一度死んでも、必ず復活すると信じ、それを人にも知らせることができますか。では、イエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

わたしたちはどこかで、イエスの愛しておられたもう一人の弟子になれるのではないでしょうか。足が速くて謙虚で、復活を信じる堅固な信仰この3つをすべて備えてはいないかも知れませんが、そのどれかには当てはまる、そのどれかには近い生き方をしているのではないでしょうか。

わたしたちがイエスの愛しておられたもう一人の弟子であるならば、シモン・ペトロのような責任ある人と力を合わせて、復活したイエスの証人となるべきです。それはつまり小教区の一員として、主任司祭や小教区評議会の方々と力を合わせて、証しをすることです。

イエスは今生きて、わたしたちを喜びで満たしておられる。復活したイエスを信じる人は、今喜びを抱えて生きることができると、あなたが生きる場所で証ししてください。復活したイエスは、さまざまなしるしで、これからあなたの証しを裏書きしてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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