主日の福音12/04/07(No.585)
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか

主のご復活、おめでとうございます。今年の復活の喜びを黙想するために、真っ先にイエスのご遺体が納められた墓に行った女性たちの言葉を選びたいと思います。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16・3)この言葉です。

彼女たちがこのようなことを考えていたのは、もちろんイエスのご遺体に香料を塗るお世話をするためでした。イエスさまの復活を理解しての行動ではありませんでした。けれども、彼女たちの言葉は確実に、イエスのために次に何かしようという気持ちに満ちあふれていました。

彼女たちにとって、墓に埋葬されているイエスに次にすることは、香料を塗ることでしたから、そのことに心が向かっていたのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」この言葉は象徴的に、イエスのために次に何かをしようと考えた人の言葉だったのです。

この言葉を発した女性たちに、神の使いが現れ、別の使命を与えます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16・7)

神の使いが彼女たちに新しい使命を与えました。墓に泣きに来た女性たちに次の使命を与えたのではありません。墓に、イエスのために次に何ができるかを考えてやって来た女性たちに、新しい使命を与えたのです。

この事実は、わたしたちにも考えさせます。イエスが死んで、復活しました。この場面で、次に何をしようかと考えている人には、復活したイエスが新しい使命を用意してくださるのです。反対に、イエスが死んで復活したのに、下を向いて泣いている人たちには、次に向かう使命を受け損なってしまいます。

わたしたちの教会に当てはめてみましょう。わたしたちの教会も、何かが死んで、何かが復活しようとしている時期だと思います。この時期に、「次に何ができるだろうか。次にこういうことができるのではないだろうか」と考える人には、復活したイエスは照らしを与えて次の使命へと向かわせると思います。

ところが、「あれもできなくなった、これもやむなく廃止となった。廃れていく一方だ」と、下を向いているだけでは、イエスの照らしにも気付かず、次の使命も取り逃がしてしまうのではないでしょうか。

ここでわたしたちは考える必要があります。わたしは今、この教会のために、次に何ができるか考えているだろうか。小学生として、中学生高校生として、社会人として、大きいことか小さいことかは関係ありません。次に何かしようというその気持ちが大切です。それさえあれば、復活したイエスが本当に必要な次の使命を、与えて派遣してくださると思うのです。

次に必要になってくること。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」そう考える人がもっとたくさん増えて、この教会に新しい力となってくださることを期待します。

この教会のためだけでなく、上五島地区や、長崎教区のため、次に何が必要だろうか、何ができるだろうかと考える。そんな考え方の人を、今復活したイエスは捜し求めています。そして、次の行動を起こす人の力が集まって、望まれる浜串小教区、望まれる長崎教区の神の民となっていくことができるように、復活の主に願うことにいたしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥