主日の福音12/04/06(No.584)
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

使命のために生き、使命のためにいのちをかける

聖金曜日、イエスの御死去を仰ぎ見ました。イエスの御死去を、ひとことで言い表すとしたらどういう言葉が当てはまるでしょうか。それは、使命を全うして亡くなられた、ということではないでしょうか。

神の御独り子が、人となってわたしたちの間に住まわれ、十字架上でいのちをおささげになりました。人となったということは、必ず死ななければならないということです。どのような最期がいちばんふさわしいか。イエスはその姿を十字架の上で示したのです。それは、「使命を全うして亡くなる」ということでした。

ヨハネ6章39節でイエスは次のように言われます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」イエスは御父から託された使命を完成させるために、十字架上でいのちをささげてくださったのです。

このイエスの亡くなりかたは、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。わたしたちにも、使命のために生き、使命のためにいのちをささげ、人生を全うするように招いているのです。何も語りませんが、そのお姿で、「あなたは自分に与えられた使命のために生きていますか。あなたは自分の使命にいのちをささげてくれますか」そう語りかけているのです。

ではわたしの使命とは何でしょうか。ペトロのように、いよいよになった時にイエスを「知らない」と拒むことでしょうか。あるいは「十字架につけろ」と叫ぶことでしょうか。それとも、槍で、イエスのわき腹を突き刺すことでしょうか。もちろん違います。わたしたちの使命は、それぞれの生活の中で、イエスがわたしのよりどころですと表明することです。

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(19・25)何かの目印の場所に立って待ち合わせをする人のように、自分はイエスのそばに立っていますと表明するのです。それは、表だった派手な活動ではありませんが、わたしが生涯果たし続ける使命として十分です。「あなたはカトリック信者か」と聞かれた時に「はいそうです」と答えるだけでも、イエスのそばに立っていると表明できます。

朗読の中でわたしたちの使命を考えさせるもう1つの姿がありました。アリマタヤ出身のヨセフは、イエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出ました(19・38)。イエスのために何かをしたいと、誰かに願い出ること。これもわたしたちが果たし続け、そのためにいのちをささげるのに十分な使命です。

イエスのために何かをしたい。その気持ちを形にする場所は教会の内にも外にもあります。教会内の活動に、人を誘うこともできます。あるいは、小さないのちを守る運動は、一般社会よりも教会が積極的に外に向けて訴えかけることのできる場面です。こうしたことに、積極的に関わり、使命を果たすこともできます。

今もイエスは、わたしたちに十字架の上から呼びかけています。あなたは今、使命のために生きていますか。使命のために、いのちをささげてくれますか。これから、十字架の礼拝に移ります。主の十字架をあがめながら、わたしは、こんな使命のために生きてみます。こんな使命のために、いのちをかけてみますと、心の中で表明しましょう。自分の十字架を担ってイエスに従うことができるように、力を願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
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