主日の福音12/04/01(No.582)
受難の主日(マルコ15:1-39)
あなたは何を十字架につけろと叫びましたか
長崎教区の司祭の異動が発表されました。ほとんどが、若い司祭の転勤でした。上五島地区は、今年の移動にはだれもかかっていません。また今年度も、現在の体制で司牧活動が進められていきます。詳しいことはよきおとずれ4月号がもうすぐ届きますので、そちらをご覧ください。ちなみに、2月26日に叙階された大水満新司祭は、浦上教会の助任司祭として、今日から浦上で働いてくれることになっています。
聖週間が始まりました。特に聖なる三日間は、都合をやりくりして典礼にあずかってほしいと思います。今年は聖木曜日が福見教会で夜7時、聖金曜日が浜串教会で夜7時、復活徹夜祭は福見教会夜7時と浜串教会夜9時です。復活の主日のミサは、浜串教会が朝7時、高井旅教会が朝9時です。それぞれの教会はもちろんですが、できればお互いの教会に行って、三日間の典礼をすべて参加してほしいと思います。
実際には、参加が難しい方もいらっしゃるでしょう。そのような方のために、予定では聖木曜日までに聖週間の説教をすべて準備して、プリントにまとめて配りたいと思っています。高齢や病気などで参加が難しい人は、木曜日までに教会の入口にプリントを用意したいと思いますので、この期間の補いにしてください。
さて、今年の受難の主日にあたって、役割分担をした受難の福音から、群衆役をした皆さんの言葉を1つだけ取り上げたいと思います。群衆役のみなさんが出した言葉は何だったでしょうか。あれこれ言ってないので、すぐに思い出せるはずです。群衆はただ一言、「十字架につけろ」と叫んだのです。
「十字架につけろ」という言葉は、イエスを死に追いやる言葉です。確実に、イエスを亡き者とし、排除する言葉です。さまざまな言葉が飛び交う中で「十字架につけろ」という言葉が聞こえたのではありません。群衆が皆、いっせいに「十字架につけろ」と言ったのです。ですから、イエスを取り囲む群衆皆が、イエスを十字架につけることに加担したことになります。
群衆が十字架につけたのは、イエスお一人だったでしょうか。もちろん、イエスを十字架につけたのですが、「自分にとって都合の悪いことから逃れたい」そういう利己心に関わるものすべてを、イエスに背負わせて十字架につけたのではないでしょうか。
本来なら、自分で背負わなければならない罪を、わたしたちはいろんな理由をつけて逃れようとしています。今日だけ人をだましてやり過ごそう、この場だけ嘘を言って逃れよう、他人は死んでもしかたないが自分は死にたくない。そんなあらゆる利己心が、「十字架につけろ」この一言に込められているのではないでしょうか。
マルコ福音書は、イエスが十字架に磔にされてから発したのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉だけでした。
群衆に向かって、「あなたたちは、何も十字架につけるものはないのか」と追求することもできたはずです。けれども、イエスは御父のみ旨だけを尋ねて亡くなりました。わたしたちが十字架に磔にしなければならないものをすべてイエスが引き受けて、御父にゆるしを願ったのです。
この一週間、イエスが成し遂げてくださる救いのみわざを一緒にたどっていきましょう。わたしたちには何も手を出すことのできないイエスの尊いみわざを、できれば三日間通して、この目に焼き付けることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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