主日の福音12/03/25(No.581)
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
一粒の麦の実り、あなたはどう向き合う
明日と明後日、小学生と中学生1日ずつ春の黙想会です。先週火曜日に、今年の黙想会の説明会があって、参加してきました。鯛ノ浦教会の敷地をいっぱいに使って、聖書の箇所を拾ってプリントに書き込み、イエスさまの全生涯を学ぶようになっています。
まず、鯛ノ浦教会の敷地を7つに区切ります。その7つの場所に、6個ずつ聖書の箇所を貼り付けたヤクルトの入れ物が隠してあります。6個ずつ、7つの場所だから、全部で42個です。
浜串小教区は、浜串教会の小学生が1つのグループ、福見・高井旅教会の小学生がもう1つのグループとして行動します。中学生は全体で1グループです。このグループで7つの場所を移動しながら、42個すべての聖書の箇所が記されているヤクルトを見つけ出して、イエスさまのすべての出来事を拾っていく。これが、今年の黙想会の仕組みです。
鯛ノ浦教会の7つに区切られた敷地の中の、どこかに聖書の箇所を貼り付けたヤクルトが隠されています。どこに隠されているか、グループで力を合わせて探さなければなりません。42個すべて見つけて、その時間も競うそうです。タイムが良かった3位までは、すばらしい商品が用意されています。3位までにぜひ入って欲しいですが、とにかく知恵と力を尽くしてください。
先週の火曜日、定置網を引き上げに行く船に乗せてもらい、見学に行きました。今年に入って、定置網の船に乗ってみたいなぁと思っていたのですが、ようやく願いが叶いました。手早く作業する船員の皆さんに目を丸くして、仕事もろくにしませんでした。カラスを追い払うくらいしかお手伝いできませんでしたが、アジを袋に詰めてもらって帰りました。また機会があったら乗りたいです。
次の火曜日は中学生の合同黙想会に早くから子どもを連れて行きますし、その次は聖週間の火曜日で長崎での聖香油ミサに出席しますので、次に乗ることができるのは御復活明け、4月10日になりそうです。
さて福音朗読は、ギリシア人がイエスに会いに来る場面から始まって、人の子は上げられる、つまり十字架の上で命をささげるという最期の場面の予告をしている箇所でした。ギリシア人がイエスにお目にかかりたいと願っている。そのことをきっかけにして、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12・23)と打ち明けました。
ギリシア人はユダヤ人からすれば外国人です。外国人、すなわち救いに招かれているユダヤ人だけでなく、すべての国の人がイエスにお目にかかるその時が来た、イエスはそう仰ろうとしているのでしょう。今こそ、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実、すべての人の救いという実を結ぶ時が来たのです。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12・24)今年、このイエスのみことばを繰り返し口ずさみ、思い巡らすうち、次のように考えました。「イエスはご自分のことをぶどうの木と言ったり一粒の麦と言ったりしている。これは、収穫に関係するたとえだから、実際の収穫についても考える必要があるのではないか。」
今週の朗読で、イエスは御自分がどのような死を遂げるかを、一粒の麦にたとえました。イエスの十字架上の死によって、多くの実を結んだとき、それは収穫される必要があるのではないでしょうか。
作物が実を結び、収穫の時期が来ると、当然収穫に取りかかります。なぜ収穫するか。それは、作物の実りが、自分にとっても、他の人々にとっても、大きな喜びをもたらすからです。
イエスが、一粒の麦となって、多くの実を結んでくださいます。罪のゆるし、神との和解、救いの約束です。このイエスがもたらした実りを刈り取る人は、当然これらの実りが、自分にとっても、他の人々にとっても、大きな喜びをもたらすと考えて収穫に取りかかるわけです。自分に何の役に立つのか、他の人々にどんな喜びをもたらすのか分からずに収穫する人はいないのです。
では本当に、イエスがもたらす実りが役に立つと信じているでしょうか。ミサに集い、聖体の恵みにあずかりながら、イエスがもたらしてくださった実りは、今もわたしに喜びをもたらし、多くの人を喜びで満たすと、そう信じているでしょうか。もしそうであるなら、教会に足を向けない人に、あなたもイエスの実りを収穫に行きましょう、そう声をかけてほしいと思います。
あるいは、教会と全く縁のない生活をしている人に、自分は主日に教会に行っていること、教会でイエスの実りを喜び合っていることを告げ知らせ、分かち合っていただきたいのです。告げ知らせる相手から、「教会に行って何になるのだ」と言われたときこそ、イエスによる罪のゆるし、神との和解、救いの約束は、あなたにとってもきっと喜びになるよと誘ってほしいと思います。
収穫は、次の種蒔きのことにも思いを向けさせます。イエスはわたしたちを次のように招きます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12・26)
イエスが、一粒の麦となって命をどのように用いるべきかお手本を残されました。「わたしに従え」とイエスは招いているのですから、わたしたちも、一粒の麦となる必要があります。一粒の麦となって多くの実を結び、罪のゆるし、神との和解、救いの約束を告げ知らせる者となれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
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