主日の福音12/03/18(No.580)
第主日(ヨハネ3:14-21)
光に近づく人に闇は打ち勝てない

3月12日に、46歳の誕生日を迎えましたが、今度は長崎の信徒発見の記念日でもある17日に、叙階記念日を迎えました。20年前、1992年の3月17日、島本大司教さまによって司祭に叙階させていただきました。たぶん、わたしの司祭生活は折り返しが来たと思います。つまり、40年は司祭生活を期待できるだろうと考えています。50年はちょっと期待しすぎでしょう。

折り返しは何事においても大事なことです。漁船が漁に出て、仮に大漁したとしても、折り返して無事に港に帰ってこなければなりません。世界の屋根と言われるような山に登っても、折り返して無事に下山しなければ成功とは言えません。わたしも、折り返して40年は務めを果たさなければ、わたしの司祭生活は未完成ではないかと思っています。引き続き皆さまのお祈りと、ご協力をお願いいたします。

この記念の日のすぐあとに、小教区で釣り大会が計画されたことは思い出に残る出来事です。みなさんと親しく交わる行事をもって、新たな折り返しの司祭生活を始めることができたのですから、それはとても喜ばしいことだと思います。天気は思わしくないようですが、今日1日、大いに楽しみたいと思います。

福音朗読に入りましょう。6年前も考えた箇所を取り上げてみました。どこまで行っても出会うことのないものがあります。たとえば右と左。どこまで右に行っても左と出会うことはありません。または東と西、北と南。東へ東へどこまで行っても西と出会うことはありません。

このたとえを頭に置いて今日の朗読をたどっていくと、決して出会うことのないものが取り上げられていることに気付きます。それは、「光」と「闇」です。次の箇所です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(3・19)。

光を求めれば求めるほど、闇は遠くなり、闇を追い続ける人間にとっては光は遠のいていくのです。物には表と裏のあるものがありますが、光の裏は決して闇ではありません。正反対ではありますが、光と闇に接点はないのです。

今日の朗読で示されている「光」、この光とはいったい誰のことでしょうか。「光が世に来た」とあります。「光」の意味を間違いなく理解するために、今日の朗読は直前で次のように言っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3・17)。するとこの「光」とは、御子イエス・キリストであることは明らかです。

この光であるイエス・キリストに対して、人間はどちらかの態度を取り始めます。「光の方に来る」のか「光の方に来ない」かです。当然、選ぶべき態度は「光の方に来る」態度、朗読の中から取り上げると「真理を行う」ことがわたしたちの取るべき態度になります。

繰り返しになりますが、「光の方に来ない」態度と「光の方に来る」態度とは決して出会うことはありません。イエスから遠ざかる態度を繰り返しているうちにいつの間にかイエスに近づいていたなどということはないのです。わたしたちがイエスに向かう態度をとり続けない限り、イエスのもとに集うことはできないのです。

そこまでは、わたしたちみなが頭で分かっていることです。けれども、分かっていたとしても切り替えることができない弱さもあります。周りの人も働きかけた、本人もいくら何でもそろそろ教会との関係を取り戻さなければと考えるようになった。でもそれでも、動けない、足が向かない、出かけようとしたけれども途中で帰ってしまった。人間はそれほど強くありませんから、いろんなことがあり得ると思います。

わたしたちを照らし導く光であるイエスは、何度も立ち直りそうになって挫折する姿を見て諦めてしまう方でしょうか。わたしはそうは思いません。神はある意味で諦めの悪いお方だと思います。人間であればさじを投げるような状況であっても、神は決して諦めない。そのことを表す明らかなしるしが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という部分に示されています。

その場を逃げ出したり、どうなっても構わないとまでなげやりになったりする人間を神は決して諦めず、独り子をお与えになるほど愛されたのです。神に残された最後の手段までも、わたしたち人間を「光の方に来る」ためにお使いになったのです。

イエスは、ご自分が父である神から遣わされた者であることをはっきり意識していました。この世界の人間をどこまでも愛して救いに導くためにご自身が遣わされたということを自覚していました。イエスはご自分の使命をある程度実行して終わったりはしません。ご自分を世に与えるのですが、ある程度与えるのではなくて、十字架の上で、いのちもすべてお与えになったのです。

光の方に来るのが正しい道だと分かっていても逃げてしまう弱い人間を光であるご自分と出会わせるために、イエスはみずからいのちを投げ出すのです。そのままでは光を憎み、避けてしまう人間をもご自分と向き合うことができるように、みずから、いのちを与え尽くすのです。

今週は四旬節の第4週目です。2週間後には受難の主日を迎え、十字架の場面の朗読を読み、ここまで出会いの場を準備してくださった神の深い愛に触れます。放っておくと闇を好んでいく弱い人間との出会いの場を、いのちをかけて準備してくださるその時が近づいています。わたしたちも、神との出会いの場に足を運んでくれない人たちに、何とかその機会を用意してあげましょう。

例を挙げておきます。聖木曜日、イエスが最後の晩さんの席で弟子たちの足を洗ったように、わたしたちもミサの途中で男性12人の足を洗います。せっかくの機会ですから、洗足式に新しい人を誘って、もう一度出直す機会を作ってあげましょう。

また、聖金曜日には、十字架の道行きをします。ここでもなかなか教会に足が向かない人を誘って、今まで背負ってきたものの代わりに、キリストのしるしである十字架を背負ってもらい、新しい出発を作ってあげましょう。

イエスが出会いの場をご自身を与え尽くして用意してくださったように、わたしたちもイエスとの出会いの場を、より多くの人に示してあげる努力が必要だと思います。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
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