主日の福音12/03/11(No.579)
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
決して壊されない、真実の礼拝

黙想会が終了しました。さすがに説教師の神父さまも、4日間すべて終わった翌日、金曜日の朝はお疲れのようでした。それからすると中田神父はぜんぜん疲れていませんで、本当に楽させてもらいました。

ただ、別の部分では、ふだん気を回さないことに気を回したので、その点では疲れたと言えるかもしれません。「昨日はゆっくり眠れましたか」とか、ふだん絶対言わないですからね。ほかにも、食事が始まって、食事中どんな話題に触れようかとか、いろいろ考えていると初日はおかずの味がまったくしませんでした。

でもそんなことって、皆さんはふだんからしていることで、別に大げさに取り上げるようなことでもないのだろうと思います。そう考えると、主任司祭1人で暮らしている場合は、わたしも含め、自分勝手、独りよがりな暮らしをしているのだなぁということかがよく分かりました。

今年の説教師の評判はとても良くて、来年も来てくださいという声をそれぞれの教会から聞いています。いちおうわたしの頭の中には来年依頼したい説教師の予定はあるのですが、皆さまの希望が多ければ、また来年もお呼びしてもよいと思います。

さて今週四旬節第3主日に選ばれた福音朗読は、イエスが神殿から商人を追い出す話です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(2・15-16)

この様子は、言葉や態度で注意を促すというものではなくて、イエスさまによる神殿の破壊行為だと思います。当時のユダヤ教の礼拝は、神殿でいけにえを伴って行われるのがふつうのしきたりでした。

いけにえは、汚れのないものであれば、自分で持ち込んだものでも通用したわけですが、遠い場所からやって来る人々が、汚れのない状態を保ったまま、いけにえの動物を連れてやって来るのは手間も暇も掛かって非常に困難なことでした。

そこで、神殿のいちばん外の境内で、いけにえの動物がそこそこの値段で売られていたわけです。さらに、神殿の中で使用できるお金は、神殿内だけで通用する古い貨幣である必要がありました。

当時一般に流通していた貨幣、例えばデナリオン銀貨は、「皇帝の肖像と銘」が刻まれていて、皇帝は自分を神としてあがめることを要求していたので、神殿でデナリオン銀貨は使えなかったのです。そこで神殿専用の硬貨と両替する人々が重宝するのでした。

神殿で商売が広がりすぎるのは、祭司やファリサイ派の人々も手放しでは喜べない状況でしたが、しかたがないとして黙認していたわけです。けれども商売を野放しにしておけば、皆が皆無欲ではいられないわけです。そんな複雑な事情が絡んだ中で、イエスはわたしが破壊行為だと言った行動に出ます。

あえてわたしが破壊行為だと言ったのにはわけがあります。すでに話した通り、当時の礼拝の行いには、お金が絡んでいましたし、動物のいけにえが不可欠でした。イエスが神殿に奉献されたときでさえも、ヨセフとマリアは鳩をいけにえにささげたのです。

お金絡みの礼拝、いけにえに頼った礼拝を、やさしく注意するのではなく、まったく新しい礼拝に生まれ変わらせるため、イエスはこれら従来の礼拝を破壊しようとなさった。わたしはそう考えました。何よりも、当時のしがらみから抜け出せない礼拝と、礼拝にまとわりついている商売こそが、本来のあるべき礼拝を破壊していたのです。本来の礼拝を破壊していた行為を、イエスが破壊しようとした。わたしはそう受け取りました。

イエスの乱暴な態度に、神殿で商売をしていた人々、その商売を黙認していた人々はかんかんに怒りました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)

それでも、イエスの毅然とした態度は変わりません。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(2・19)礼拝の名を借りて金儲けをしていた人と、それを黙認する人たちがどれだけ礼拝を汚し、破壊させても、わたしは三日で建て直してみせる。イエスの強い決意が伺えます。

ところで、なぜイエスは「わたしは三日で建て直してみせる」と、断言できるのでしょうか。未来のことを、どうやって断言できるのでしょうか。「わたしは三日で、成し遂げてみせる」と、ほかの誰が断言できるでしょうか。

イエスは、ご自身の十字架上のいけにえによって、破壊された礼拝を建て直そうとしていました。「この神殿を壊してみよ」とは、「もし壊すなら」という意味よりも、もっと強い意味があると考えます。つまり、「あなたたちは神殿での本来あるべき礼拝を破壊している。気の済むまで破壊するがよい。わたしはみずからをいけにえとしてささげることで、本来あるべき礼拝を取り戻す。」イエスはこのように仰りたいのです。

イエスご自身が決めて、いのちをささげる。だから、未来のことであっても断言することができます。できるかできないか分からない未来のことではなく、誰にも強いられず、みずから望んでいのちをおささげになる。だから、確かな未来となります。イエスは、確実にご自身をおささげになることがおできになるお方なのです。

イエスがささげられる礼拝は、決して滅びない礼拝です。わたしたちは、今ここで、イエスをおささげする礼拝、ミサをささげています。この礼拝は、父なる神に届く真実の礼拝です。ですから、この真実の礼拝、決して滅びない、どんなに時代が進んでも破壊されない礼拝に近づくために、わたしたちはできる限りの努力をしましょう。

日曜日に、ミサに集う人々はたくさんいます。もし、もう一つこの真実の礼拝を積み上げるために、平日のミサに参加してみようと努力してくれたら、どんなにすばらしいことでしょう。決して滅びない価値ある礼拝を、週にあと一度、積みまして人生を歩むなら、どんなに豊かな人生でしょう。

ぜひ、イエスが建て直したこの最高の礼拝を、人生の中に、一週間の中に、あと一日積み上げる。今週はそのようなことを考えてみてください。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
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