主日の福音12/01/29(No.573)
年間第4主日(マルコ1:21-28)
中から出るイエスの権威で教え、導く

いよいよ火曜日にはマラソン大会に出場して来ます。練習以上のものは出ないと思いますから、いきなりトロフィーをもらってくるとか、そういうことは言えませんが、去年の長距離の部14人中13位よりは、明らかに順位を上げられると思います。

タイムとしては、今年の長距離の部は浦頭教会からマリアの園までの往復8キロだそうですから、48分、順位は1桁台、あわよくば8位入賞と、その辺が目標でしょうか。練習は昨日までで仕上げました。今日からは体を休めて、火曜日に走りたくてたまらないと、そういう状態に整えたいと思います。

もしも、冷やかし半分で応援に行く人がいらっしゃるようでしたら、当日朝8時10分に土井ノ浦から出る船に乗ってください。これが便利です。同じ船は、午後3時55分に出て、5時ごろ土井ノ浦に着きます。わたしは前日よきおとずれの仕事で長崎にいるので長崎から福江に行きますが、帰りは土井ノ浦に着く船に乗ろうと思っています。

2ヶ月の練習でしたが、あらためて分かったことがあります。練習を積んだ人には、練習に裏付けられた自信が、顔に表れるということです。何か目標を見据えているとか、周りにだれがいても自分の走りをちゃんとできるとか、そうしたことはかぶり物では決して身につかないもので、中からにじみ出てくるものだと思います。

さて今週の福音朗読ですが、イエスが安息日に会堂に入って教えると、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1・22)とあります。

律法学者たちも、実は権威を振り回していたのですが、彼らの権威は律法に頼った権威で、いわば律法をかさに着て、威張っているだけでした。イエスは、律法学者とは全く違った形で、「権威ある者として教えた」のです。イエスには、中からにじみ出る権威がありました。

律法学者たちも、正しい権威を振るうことは可能だったでしょう。しかしそれは、常に律法に依存していて、しかも律法を正しく理解しているときにのみ備わっている権威です。彼らは律法を離れては、単なる人間に過ぎなかったのです。

イエスは違いました。会堂で教える時も、汚れた霊を追い出す時も、どんな時でもイエスの中に権威がありました。それは、だれとも違う、イエスだけが備えていた中からにじみ出る権威でした。

この、イエスだけが持つ権威、中からにじみ出てくる権威に、人々は驚いたのです。不思議に思ったのではなくて、圧倒され、畏敬の念をもったのです。中からにじみ出てくるものは、その人を雄弁に物語ります。人々は、イエスこそ真の権威をもっている方だと、理解したのです。

この場面から、わたしたちも何かを学び取りましょう。わたしたちも、自信を持って何かを話したり、教えたりしなければならないときがあります。よくわたしがたとえにあげる話ですが、外出先で食事をするときがあるわけです。そういうときに、食前食後の祈りを唱えることはすばらしいことですが、どのような権威を示すかに注意が必要です。

わたしたちは、見せびらかそうとして祈ることもできます。反対に、だれかに見せようとしてではなく、心から食事に感謝するために祈ることもできます。前者は、権威をかさに着た態度ですが、後者は権威がにじみ出た態度です。人々が公の場で祈るあなたを見て、その姿に圧倒されるのは、どちらの心がけでしょうか。見せようとして祈った姿でしょうか、心から感謝の気持ちがあふれて祈った姿でしょうか。

皆さんは、スポーツ選手が十字架の印をする姿を見たことがないでしょうか。その十字を切る姿にわたしたちが圧倒されるのは、見せようとして十字を切っているからでしょうか、喜びが心からあふれて十字を切っているからでしょうか。答えは明らかです。

いつも、中からにじみ出てくる権威が人を圧倒します。中から表れる権威が、本当の意味で人を教え、子供を導き、従わせるのです。権威をかさに着ても、権威を振り回しても、人は心を打たれないし、子供は心を開き、耳を傾けようという気にはなりません。ですから、わたしたちが何かの場面で教えなければならない、導かなければならないとしたら、中から出てくる権威によって、教え導くのです。

人によっては、自分にはそんなものが備わっていませんという人がいるかもしれません。何かの仕事を任されたり、選ばれて上に立つことになった。けれどもどんな顔をして、自分に任せられている人を教え、指導すればよいのだろうか。悩むかもしれません。

権威をかさに着てはいけない、権威に頼ってはいけないと言いましたが、1つだけ、頼れる権威があります。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストは、わたしたちにとっての唯一の権威です。ですから、あなたが自信をなくし、子供に、また人に教え導くのをためらっているなら、あなたの中にイエス・キリストがいるように心がけたらよいと思います。

つまり、「イエスだったら、この場面をどのように教え導くのだろうか」と考えながら、声をかけるということです。自分自身は確信を持てなくなっているかもしれませんが、「イエスだったらどう判断し、行動するだろうか」そのことに心を配るようにすれば、あなたが教え導こうとするとき、イエスが権威を与え、助けててくれるのではないでしょうか。

突き詰めると、わたしたちの中からにじみ出てくるものは、イエス・キリストであるべきだ、ということです。練習に裏打ちされた自身や、積み重ねた経験もあるでしょうが、それらは一歩間違えると、かさに着てしまうものになります。いつも、わたしたちの中から、イエス・キリストがにじみ出てくる。そういう権威の使い方を、イエス・キリストに願い求めましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
‥‥‥†‥‥‥‥