主日の福音12/01/22(No.572)
年間第3主日(マルコ1:14-20)
時は満ちた。生活の中心に何を据えますか

この前、信者さんからこう言われました。「気のせいかなぁ。神父さま、痩せたような気がする。」気のせいじゃないですよねー。お腹とか、今までサッカーボールが入っていたのが、ソフトボールくらいになったのですから、これで痩せたことに気づかないなんて、どうかしています。

痩せてちょっと助かっていることがあります。これまでは歩いたりするとシャツとかがはだけたりして、ひんぱんに前を整えなければなりませんでした。最近は、少し歩いたくらいでは洋服がはみ出さなくなりまして、あーこれもお腹が引っ込んだ効果なんだなぁと実感しています。

福音朗読は、マルコ福音書からイエスの宣教開始にあたっての第一声と、ガリラヤで漁師を弟子にする場面が選ばれました。イエスは宣教にあたっての第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)と仰いました。この呼び掛けをどう理解するか。漁師を弟子にする場面からヒントを得たいと思います。

まずガリラヤの漁師だったシモンとその兄弟アンデレ、彼らがイエスの招きを受けます。イエスは2人が湖で網を打っているのを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1・17)と言われたとあります。

みなさんは、この場面に驚きとか、疑問とか、何か感じないでしょうか。仮にわたしたちがイエスさまと同じように岸にいて、網を打っている漁師が浜串の沖の波止場にいるとしましょう。どれくらいの声だったら、沖にいる漁師に聞こえるのでしょうか。あるいは、沖にいる漁師の心をとらえて、網を捨てて従ってくれるでしょうか。

おそらく、大声で叫ばないと、岸にいる人の声は聞こえないはずです。イエスは大声で言ったのかなぁと、みなさんはお考えでしょうか。もしそうであれば、少なくとも最初の言葉は、「おーい」と呼び掛けてからでないと、漁師はイエスの声に気付かなったでしょう。

わたしは、今話したこととはちょっと違う考えをもっています。つまり、イエスが呼び掛けたのは、湖で網を打っている真っ最中ではなく、岸に戻ってから、静かに声をかけたのではないかなぁ、と考えたのです。タイミングを見計らって、それから声を掛けた。そう考えます。

この方法ですと、「おーい、ちょっと話があるんだけど、聞こえるか―」みたいな大声は出さなくて済みます。一方で、2人の漁師がどうしても話を聞かなければならない、そういう雰囲気作りが必要です。

そこでこう考えました。シモンとアンデレが湖で網を打っているのを御覧になった時からずっと、片時も目を離さず、2人を見つめておられたのではないか。そう考えました。さっきからずっとわたしたちを見ているあの人は、いったいだれだろう。わたしたちに何の用事があるのだろうか。わたしたちが岸に上がって来てからもずっとわたしたちを見つめている。きっと何か大事なようがあるに違いない。イエスがひたすら見つめ続けたことで、2人の漁師に心の準備ができた。それを見計らって、声を掛けたのではないか。そう考えたのです。

もちろん真実はどうか分かりませんが、十分に心の準備をさせてから、声を掛ければ、効果的だというのは皆さんも理解できると思います。いつか岸辺に立って、海の上にいる人を見つけて、考えてみてください。わたしの考えもまんざらでもないと思います。

さて、シモンとアンデレは、網を捨ててイエスに従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、イエスの呼び掛けに応え、父ゼベダイと雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行きました。

彼らが取った行動をまとめると、漁師の仕事を生活の中心に据える生活から、イエスに従って歩むことを生活の中心に据えた、となります。ここから、さかのぼってイエスの宣教活動にあたっての第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼び掛けは、「イエスに従って歩むことを生活の中心に据える」そういう呼び掛けだったと理解するのが適当だと思います。

ここで考えてほしいことがあります。イエスは、この宣教活動の始まりに、初めて「イエスに従って歩むことを生活の中心に据えなさい」と呼び掛けたのでしょうか。第一声としてはそうだと思いますが、わたしは、もっと以前から、具体的にはイエスの誕生のその時から、この第一声を発し続けていたのではないかと思うのです。

イエスの誕生は飾りも何もない、粗末な場所での誕生でした。喜ばしいことの何もない中での、唯一の喜びの源でした。そこへ羊飼いが訪ねて来て、後には占星術の学者たちも贈り物を携えて拝みに来ます。神殿に奉献される時、シメオンは幼子を抱いてもうこれで十分だと満たされました。12歳になって神殿へ出向いた時も、父なる神のもとに留まりました。

これらはすべて、中心に何を据えて生きるべきかを教えているのではないでしょうか。どの場面も、中心に神を据えて、イエスの導きを中心に据えて生活することを、教えていると思うのです。

そして、イエスはあらためて、何を中心に据えるべきかを第一声として呼び掛けられました。これは、わたしたちへの呼び掛けでもあります。ガリラヤの漁師たちのように、すっかり生活が入れ替わる人も中には必要でしょう。男の子が司祭職を目指して神学校に行くとか、女の子がシスターを目指して志願院に行くとか、それも大い期待します。それと同時に、わたしたちの日々の生活も、中心に何を据えるかを考えてほしいのです。

中心に何を据えるのか、見誤ってはいけません。これが中心だと思っても、それが根こそぎ揺さぶられ、洗い流され、何も残らないかもしれないのです。イエスの第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この声にふさわしい生活を積み重ねることができるように、ミサの中で照らしと導きを願いましょう。
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(マルコ1:21-28)
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