主日の福音12/01/15(No.571)
年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
「来なさい。そうすれば分かる」と言える生活を保つ

マラソン大会に向けての走り込みはぼちぼち進んでいますが、張り切りすぎたかもしれません。背中で腰に近い部分の筋肉を痛めてしまいました。まったく走れないわけではないのですが、走り出しを恐る恐るしているといった現状です。

急に練習を始めて、あんまり詰め込み過ぎたかなぁと反省しています。ここ数日は、様子を見ながら練習を増やしたり減らしたりしているところです。体を壊してしまっては元も子もありませんので、用心したいと思います。

年間の主日に入りました。今年は主日の朗読配分がB年ですから、マルコ福音書を中心に日曜日の朗読が選ばれます。今週はたまたまヨハネ福音書が選ばれていますが、来週からはマルコ福音書が選ばれていきます。

今週の朗読箇所は、「最初の弟子たち」がイエスによって選ばれる場面です。ヨハネ福音書は、最初の弟子たちが選ばれる場面を、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書とは違った見方で描いています。

共観福音書では最初の召命物語はガリラヤ湖で、4人の漁師を弟子にするという形で描かれていますが、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの弟子であった2人がイエスの泊まっている場所に泊まり、弟子になっています。さらにイエスのもとに泊まった人がほかの人を連れて来て、イエスの弟子が増えていきます。

ここで疑問を感じるでしょう。最初の弟子たちは、共観福音書が述べているように湖で選ばれたのか、ヨハネ福音書が描くように違う形なのかということです。

わたしは、どちらも最初の弟子たちを選ぶ物語なのだと思います。一方は湖畔で起こった出来事で、今週朗読されたのは陸上での出来事です。同時に出来事は起こりません。それぞれ、別の場面と考えるべきです。

ですから、共観福音書は湖畔での出来事を最初の出来事ととらえているし、ヨハネ福音書は洗礼者ヨハネのもとにいた弟子たちのことを最初の出来事ととらえている、それだけなのだと思います。

今回は、ヨハネが最初の弟子たちを選ぶ場面ととらえた出来事にそって、学びを得ることにしましょう。最初は洗礼者ヨハネの弟子であった2人の人が、洗礼者ヨハネから促されてイエスのもとに行きます。そしてイエスのもとに泊まりました。

この、イエスのもとに泊まったことが、2人に決定的な影響を与えることになりました。日本人の感覚で言うと、「寝食を共にした」ということです。どこかに集まってしばらくの時間過ごすのとは違う何かが、寝起きすることで起こったに違いありません。

今日の出来事につながる、面白い体験を思い出しました。太田尾教会に赴任していた時のことです。1人の小学生男子が、「神父さまと一緒に泊まりたい」とわたしのところに願い出ました。生まれて初めてのことでした。戸惑いながらも、本人の母親に了解をもらってからおいでと伝えると、母親も喜んで送り出してくれまして、その男の子はパジャマと着替えを持って、司祭館にやって来たのです。それこそ、金曜日の午後4時ごろのことです。

わたしは子供の扱いに全く慣れていないので、午後4時から次の日まで、どんなふうに時間を過ごせばよいのか、まったく見当もつきませんでした。思い出せるのは、風呂に一緒に入ったことと、晩の祈りを一緒に唱えたことと、わたしの布団の隣に小さな布団を敷いて、一緒に眠ったこと、そして、目を輝かせてとても楽しかったと母親に報告しながら帰っていったこと、それくらいです。

けれども、その子にとっては一生忘れない思い出になったことでしょう。その時のことがどのように本人の信仰に影響していくのかはわかりませんが、少なくともわたしは、神父さまに興味を持ち、神父さまと一緒に寝泊まりしてみたい、神父さまの生活を体験してみたいと思っている子供が、中にはいるものだということを強く感じたのです。

イエスに、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた最初の2人は、イエスに強く惹かれ、イエスの生活を体験して、いつもイエスと共にいたいと感じた人たちです。イエスはほんのわずかの言葉で、イエスと共にいたいと感じた人を引き寄せました。「来なさい。そうすれば分かる。」(1・39)

イエスの言葉は、わたしたちの生活を振り返る大切な点を教えてくれます。わたしたちは、どこかにいるはずの「自分に興味関心を持っている人」を前にして、見て、一緒に寝泊まりして、それで自分がどんな人かわかる、そういう生活をしているでしょうか。わたしの生き方に興味をもって訪ねて来る人に、「来なさい。そうすれば分かる」という単純な言葉で呼びかけることができるでしょうか。

カトリック信者がどのような人たちなのか、修道者がどのような人たちなのか、司祭がどのような人なのか、面白半分ではなく、真剣に知りたがっている人もいるはずです。よく学んで、その生活を自分も受け入れたいと考えている人がいるかもしれません。そういう人たちに、わたしたちの生活は、「来なさい。そうすれば分かる」と言える生活ができているでしょうか。

もしも、「来なさい。そうすれば分かる」という言葉をかけるチャンスが回ってきたら、それはまたとないチャンスです。本当に、二度とないチャンスかもしれません。そのチャンスを、神の国のために最大限活用しましょう。

信徒、修道者、司祭、それぞれがこうやって自分の召された生き方を全うしているのだなと、すぐに見てとれるような生き方を整えておきましょう。神は準備をして待っているわたしたちに、救いの道を尋ねてくる人を必ず送ってくださいます。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マルコ1:14-20)
‥‥‥†‥‥‥‥