主日の福音12/01/08(No.570)
主の公現(マタイ2:1-12)
自分のすべてを持ち寄って幼子にひれ伏す

先週の水木金、実家に帰っておりましたが、戻って来て体重計に乗りましたら、73キロが75キロに増えていました。つい気を緩めてしまって、こたつに入ったままポテトチップスをつまんでいたのがいけなかったようです。とは言っても、練習はサボりたくないなぁと、気にはしておりました。

休暇の初日は雪が降って、走りに行く勇気が出ませんでした。翌木曜日は、めったにない好天だったのですが走らず、かわりに1万歩くらい歩きました。ようやく金曜日に、片道2キロのコースを見つけて2往復しました。1キロ6分でカバーするのが今年の目標ですから、8キロを48分で走れば設定タイムです。

最近はストップウォッチをたすき掛けして走っていまして、確かめてみたら46分でした。1キロ5分45秒でカバーした計算です。ようやく、おととし霊名のお祝いで買ってもらったウェアの出番がやってきました。今年はこれと、ランニングパンツを着て、マラソン大会に出場しようと思っています。

わたしにとっての司祭団マラソン大会は、かつては記録を争う大会でした。記録を争えない今は、過ぎた1年をどのように過ごしてきたか、不摂生して過ごしたのか、現状維持なのか、少しは自分に鞭打って過ごしてきたのか、公の前に報告する大会になっています。

相手がどうこうというのは関係ありません。あくまで自分との闘いです。健康維持のために走ろうとか、そんな気はさらさらありません。公の面前で、「来年はもっと準備して来ます」と宣言して、結果を出す。それが、わたしにとっての今の司祭団マラソン大会だと思っています。

さて、今日の典礼は「主の公現の祭日」です。東方の占星術の学者たちが、幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたことが福音朗読で読まれました。「占星術の学者たち」と訳されているギリシャ語は、英語のmagicとかmagicianのもとになっている言葉で、一方で学者という意味、他方で魔術師という意味を持っています。

すると、もとのギリシャ語は2通りに訳すことができるわけで、わたしたちが朗読した新共同訳聖書のように「学者」と訳した場合と、もう1つの可能性「魔術師」と訳した場合では、話の内容もずいぶん変わってくることになります。

学者であれば、彼らは星の研究を通して幼子にたどりつき、これからは幼子を心の導き手、星として自分たちの国でこれまで通り学者として活躍する話ということになります。一方、「魔術師」という意味であれば、魔術に明け暮れていたこれまでの生活を改め、魔術にではなく幼子によって世界が救われることを自分たちの国で告げ知らせ、人々に貢献する話ということになります。

あえて、「魔術師」という意味に取らなくてもよいのですが、「学者」であれ、「魔術師」であれ、自分たちにとって大切な物を贈り物として幼子にさ献げたことは、よく考える必要があると思います。真の学問を追い求める人であれ、魔術に心を奪われている人であれ、自分にとって最上の物を、幼子イエスの前に献げたのです。

この態度は、わたしたちも見習う必要があります。東方から訪ねて来た「学者」または「魔術師」は、自分の知恵を絞って得た結論が、目の前にいる幼子にひれ伏すことでした。

人が、だれかの前にひれ伏すというのは、自分を低いものと認める姿です。自分よりも高い人にかがむことで、教えられ、導かれ、以前よりも豊かな生き方をいただこうとする態度です。身をかがめる相手のちょっとした言葉やしぐさで自分は幸せを感じることができる。そういう相手だからこそ、身をかがめ、ひれ伏すのです。

わたしたちは、幼子イエスの前に、喜んでひれ伏すことを願っているでしょうか。イエスが、わたしたちの知恵を絞って得た結論として、教えてくださる方、導いてくださる方、以前よりも豊かな生き方をくださる方であると感じているでしょうか。

また、占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。それぞれがやってきた土地で、これ以上ない最高のものがこれらの贈り物だったでしょう。仮にこの人たちが魔術師で、贈り物は彼らの商売道具であったとしても、彼らは自分たちの持ち物をなげうっても構わないと考えたことがわかります。

わたしたちは、ミサの献金をもって、イエスさまへの日々の献げものとしているわけですが、自分がこれだけ献げても構わないと考えて、献金しているでしょうか。

「自分は幼子イエスの前に出るにはふさわしくない」そう考えている人がいるかもしれません。心配要りません。「魔術師」だったかもしれない、占星術の学者たちが、幼子の前にひれ伏したのです。イエスの導きを受け入れ、これまでの生き方を入れ変えようという心のある人ならば、幼子の前にひれ伏すことはふさわしくないどころか極めてふさわしい態度なのです。

馬小屋の飾り付けも、御公現が終わると片付けることになります。しるしがなくなっても、わたしたちの心に星が指し示したお方が住んでくださり、導きを与えてくださいます。これから、たくましく成長して数々のしるしを与えてくださるイエスの声に耳を傾ける。その決意を、このミサの中でおささげいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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