主日の福音11/12/11(No.565)
待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)
あなたも、来るべきお方の声

先に、容体が心配でお祈りしてほしい神父さまのことをお話します。五島市にある、マリアの園という施設で過ごしている竹谷音吉神父さまです。現在非常に容体が心配な状態だと聞いています。

わたしは竹谷神父さまと特別な知り合いではありませんが、以前赴任したことのある太田尾小教区に赴任したことのある神父さまで、わたしが赴任した時に巡回教会の間瀬教会司祭館建設で大変ご苦労なさった神父さまだと伺っています。

また、間瀬教会の信徒が亡くなった時に通夜と葬儀ミサに竹谷神父さまが出席してくださり、当時を知る神父さまからの貴重なお話を伺ったりもしました。皆さまにもお祈りしていただきたくて、説教の初めに一言触れさせていただきました。

今週の福音朗読は、洗礼者ヨハネの使命について語るヨハネ福音書の朗読です。朗読をよく聞いていると、まともに返事をしない場面が初めあって、その次にしっかりと返事をし始めているのがわかります。洗礼者ヨハネがメシアかもしれないと考えて人々が集まっている場面で、そのことを問いただしているときには、まともに取り合っていません。洗礼者ヨハネは自分はメシアではないとはっきり自覚があったからです。

あるところから、ヨハネがはっきりと自分の役割を知らせ始めます。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(1・23)ヨハネが自覚している役割は、来るべきメシアに向けて人々を準備させる「声」なのです。

ヨハネは、自分の役割をはっきり分かっていたので、勘違いさせるようなことを一切口にしません。もしかしたら、という淡い期待を持たせないために、「わたしはメシアではない」「違う」「そうではない」と、その手の質問に全く取り合わなかったのです。

洗礼者ヨハネの役割は「声」でした。声はふつう、誰かから発せられます。その声には自分の思いはなく、声の持ち主に思いがあります。声は、声の持ち主の思いを忠実に伝えるものです。来るべき救い主が人々に何を望んでいるかを、忠実に伝えたい。その一心でヨハネは働きました。

ヨハネは、イエスの思いを完全に伝えたでしょうか。それは不可能なことでした。救い主イエス・キリストの思いは、ヨハネの理解をはるかに超えていたからです。それでも、声の持ち主の思いを、できる限り忠実に伝えようとしたので、人々は悔い改めの気持ちを起こし、悔い改めの洗礼をヨハネから受けたのでした。

すると、こういうことが言えるでしょう。来るべきお方の「声」となって、人々に悔い改めを促す人が現れれば、来るべきお方はやって来る、ということです。「声」が届くところに、「声の主」も現れる、ということです。

イエスさまが実際においでになった時は、洗礼者ヨハネがその役割を果たしました。現代、「声」の役割を果たすべき人とはだれのことでしょうか。わたしは、すべてのキリスト者が、洗礼者ヨハネが果たした「声」の役割を果たすべきだ、と思っています。

現代、救い主の誕生は、もっと多くの人に、もっといろいろな場所に届けるべきです。多くの人が、「声」になってくれたら、それだけ多くの人が、「声の主」に気付くはずです。また、今は1人の人の声を、多くの人が聞くことのできる時代になりました。いちばんわかりやすいのはテレビとインターネットです。

テレビに出ている人が、何かを言えば、それは、何千人何万人の視聴者が聞くことになります。インターネットにも同じような効果があって、たとえばYouTubeというサイトで自分の主張をすると、ある場合は何十万、何百万人が繰り返し見ることになります。

こうした時代ですから、何か、場所と機会をとらえて、来るべきお方の「声」になってほしいのです。何も特別なことを話す必要はありません。「もうすぐクリスマスです。わたしたちの心に救い主をお迎えする準備をしましょう」そう言えばいいのです。

そうして、あらゆるキリスト者が来るべきお方を知らせる「声」になってくだされば、聞いた人はわたしたちを通して「声の主」を知り、「声の主」に近づきたい、「声の主」に耳を傾けたいと思うようになるでしょう。とにかく、人は「声」が聞こえなければ、「声の主」にたどりつけないのです。そのために、皆さん一人一人の協力が必要なのです。

わたしは、どこで、どの機会に、来るべきお方を知らせる「声」になれるでしょうか。その時間と場所についての照らしが与えられるように、そのようなチャンスが与えてもらえるように、ミサの中で祈り求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
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