主日の福音11/12/04(No.564)
第主日(マルコ1:1-8)
すべての人に悔い改めを呼びかけよう

12月3日は聖フランシスコ・ザビエルの祝日でした。今年から日本では、「日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭」という名前で祝うことになりました。フランシスコ・ザビエルを「日本宣教の保護者」として祝うことには、何かの狙いがあるはずです。

それは、日本での宣教がもっと進むことを願ってのことでしょう。日本に住むすべての人に、イエス・キリストをもっとよく知ってもらう。イエス・キリストに魅せられて、生き方そのものを転換する。そういう宣教のために取り次ぎを願っているのだと思います。

そこで考えなければならないのは、わたしたち一人一人が、宣教者にならなければ、「日本宣教の保護者」の活躍の場面、取り次ぎの場面も生まれてこないということです。わたしたちが皆、だれかに対して宣教者になって、収穫を神におささげする気持ちが必要です。宣教者としてひと肌脱ぐ。その中で、聖フランシスコ・ザビエルに取り次ぎを願う必要性が出てきます。

言い伝えによると、フランシスコ・ザビエルは日本語が上手ではなかったそうです。それなのに、日本に大きな足跡を残しました。それは、日本人がフランシスコ・ザビエルの生き方を見て、イエス・キリストを感じたからだと思います。

すべてを、イエス・キリストに賭けて生きている。この人にすべてをつぎ込ませるイエス・キリストは信じるに値する方に違いない。そうやって、日本の人々はフランシスコ・ザビエルからイエス・キリストを学んだのだと思います。

この生き方での証しは、わたしたちに最も適している宣教の方法ではないでしょうか。学問で納得させる方法もあるでしょう。あっと驚くわざを通して引き寄せる方法もあるでしょう。けれども、それらがすべての人に適しているとは限りません。

むしろ、生き方を通して、この命のすべてを賭けても悔いがないという信仰を、人々に知らせる方が皆さんに適していると思います。わたしたちがなけなしの時間や虎の子のように大切にしてきたものを、イエス・キリストのためだったら寛大に差し出すことができます。そうした生き方の中での証しを、周りの人々に示す。それが、フランシスコ・ザビエルの日本にかけた思いを受け継いで宣教する一つの形ではないでしょうか。

さて、今週は待降節第2主日です。待降節第2主日と言ったら、洗礼者ヨハネの登場です。洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に悔い改めを宣べ伝え、来るべき方への準備をさせる場面が朗読されます。

ここでわたしは、悔い改めについてもう一度よく考えてみたいと思いました。というのは、わたしたちはもしかしたら悔い改めについてかなり消極的なとらえ方をしていて、キリストを知らない人々に悔い改めを宣べ伝えることをためらっているのではないかと考えたからです。

皆さんには、思い当たる節がないでしょうか。「悔い改めなさい」という呼びかけを、自分自身に対しては受け入れるけれども、それを人に宣べ伝えるというのは考えられないという見方です。人に「悔い改めなさい」と言うことは、自分自身すらできていないことを人に要求することになり、そんなことはできないと考えていないでしょうか。もしそうだとすると、ちょっと「悔い改め」のことを見誤っているかもしれません。

悔い改めが、何か下を向くようなものだったら、それは理解が不足しています。悔い改めは、「来るべき方」に向きを変え、頭を上げる態度です。救い主にすっかり向き直り、喜びの歩みを始めることです。ですから、「悔い改めなさい」という洗礼者ヨハネの呼びかけは、「下を向きなさい」という呼びかけではなくて、「今こそ来るべきお方に向き直り、頭を上げなさい。喜びの日なのだから」という呼びかけなのです。

わたしたちが「悔い改め」をよく理解していなかったら、他人に対して決して「悔い改めなさい」と呼びかけることはできないでしょう。それこそ、相手から「お前はどうなんだ」と言われるに違いありません。けれども、「あなたも、あなたも、救い主に向き直りなさい。喜びに触れるその時が近いから」という呼びかけであれば、恐れずに語りかけることができるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネは臆せずすべての人に「悔い改めなさい」と呼びかけました。わたしたちも、フランシスコ・ザビエルの取り次ぎを願いながら、一人一人かけがえのない宣教者として、人々に「悔い改めなさい」と呼びかけましょう。悔い改めを呼びかけ、一人でも多くの人を神に向き直らせることができるように、聖人の取り次ぎを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
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