主日の福音11/11/27(No.563)
待降節第1主日(マルコ13:33-37)
救い主を待つ動機を確かめよう
待降節、主の到来を待つ季節が始まりました。教会は、この待降節から、1年の暦が始まります。そこで今週わたしたちは、救い主を待ち望む、はっきりとした目的をつかみたいと思います。
待降節に、救い主を待ち望むのですが、なぜ救い主を待つのでしょうかと聞かれたら、みなさんはどう答えるでしょうか。何となくは分かっていますが、言葉に表そうとすると難しいかもしれません。
もう30年近く前になりますが、わたしたちは教皇ヨハネ・パウロ2世が松山競技場でミサをしてくださった時、そのおいでを待ちました。わたしは浦上教会で行われた司祭叙階式の時にも、教皇さまのおいでを待ちました。あのとき皆さんは、なぜ教皇さまを待ったのですかと聞かれたら、何と答えるでしょうか。
この問いかけにも、みなさん何となくは分かっているのですが、言葉にできないかもしれません。わたしだったら、「教皇さまを一目見るために、待っていた」と答えるでしょう。教皇さまにお会いしたくて、寒い中をじっと待っていた。言葉にはならなかったかもしれませんが、これが多くの人の心の中にある答えだと思います。
この、皆が持っている体験と重ね合わせると、待降節になぜ救い主を待っているのかと聞かれたら、「救い主を一目見たいからだ」と答えるのが適切だと思います。何となく救い主を待っているのではなくて、救い主を一目見たい、救い主の近くにいて、一緒にいる実感を持ちたい。そう答える信者でありたいものです。
わたしは浦上教会で教皇さまのおいでをお待ちした時、忘れられない体験をしました。教皇さまが大村空港から車に乗り込まれたという連絡に始まって、今諫早を通過された、今長崎市内に入られたと、刻々と近づいてくる様子が聖堂内に案内されていました。
神学生は、中央通路に近い場所に席が用意されていました。当時椅子席だったのか、単なる板張りだったのか思い出せませんが、運が良ければこれで教皇さまに握手してもらうこともできる。そういう場所に神学生は置いてもらっていました。
ところが、「教皇さまが今到着しました」という案内が流れるや否や、とある修道会のシスターたちがいっせいに中央通路になだれ込んで来て、「どいてぇ!」と叫び、わたしたちを押しのけて、教皇さまに握手をもらってしまったのです。
シスターたちの迫力にも圧倒されましたが、シスターたちがどれだけ教皇さまを待っていたか、どれだけお会いしたいと熱望していたか、その差がこの結果になったのだろうなぁと今になって思います。
待降節を迎え、救い主を待つ季節が始まりました。救い主にお会いしたい。その気持ちでこれからの日々、その時を待ち続けます。その気持ちの中に、約30年前のあのときの熱意、何としても会いたい、遠くからでも眺めたい、同じ場所にいる喜びを味わいたい、そうしたものを織り込めたらすばらしいと思います。
今週わたしたちは、何となく救い主待っているのではなく、はっきりした目的、お会いしたいのだ、一目見たいのだ、その場にいる喜びを味わいたいのだ、という自覚を持って待降節に入ることにしましょう。
お会いするときに、わたしたちがどんな状態でいるべきかも、問われてきます。福音朗読にありましたように、ご降誕のその日まで、目を覚まして一日一日を過ごしていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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