主日の福音11/11/20(No.562)
王であるキリスト(年間最後の主日)(マタイ25:31-46)
最も小さい者の一人に寄り添う

いよいよ、年間の最後の主日、「王であるキリストの祭日」を迎えました。キリストが王であることを、福音の学びによって証しする者となりたいと思います。

先週わたしは宮城県の仙台市に出張しておりました。教区広報委員会の全国研修会でした。初日と3日目は広報のあり方についての講話でした。2日目は、丸1日かけて被災地を視察しました。視察の様子は参考になると思いますので感じたままに話したいと思います。

東北3県の被災地のうち、わたしたち一行は南三陸町、登米市米川、石巻市の3つの活動拠点と、その周辺地域を視察しました。その中で、南三陸町と石巻市では、声を失うような光景を目の当たりにしました。

最初は南三陸町に入りました。すぐ目に飛び込んだのは、住宅の基礎のコンクリートだけ残った荒れ果てた土地と、すっかり錆びて鉄くずとなってしまい、うずたかく積み上げられた自動車の山でした。

わたしも話ではそうした場所のことを聞いてはいましたが、実際にその場所に入ってみると、目にする光景は現実のことだろうかと目を疑うばかりでした。それはたとえるなら、紛争を繰り返している国、戦闘機で爆撃を受けた地域のようでした。

鉄骨だけが残った防災庁舎、3階建てのアパートの屋上に乗り上げたままの壊れた自動車、ひっくり返った海の堤防、あるはずのない場所に折り重なっている船。これが現実だろうかと、実際にその場にいて信じることができなかったのです。

3カ所目に訪ねた石巻市でも、一階部分を津波で突き破られてそのままになっている家が延々と続いているのを目の当たりにしました。バス1台で視察していたのですが、一階部分が空洞になっている家は、海岸地区からいったいどれくらい奥まで広がっているのか見当もつかず、胸が痛くなりました。

そして石巻でいちばん焼き付いたのは、日和山公園から眺めた光景でした。この公園は小高い丘の上にあって、海沿いの地区が見渡せる、本来は絶景の場所です。わたしたちがそこから海沿いの地区を眺めたとき、あーこれが、報道でよく紹介されていた場所なのだと分かりました。

地震の後の津波が押し寄せたとき、「あそこにまだ人がいる!早く逃げて!」と人々が叫んでいたのは、ここからだったのだとよく分かりました。そして石巻市の海岸地区では、今でも自動車がまとまった場所に積み上げられていますし、がれきも、こんなにたくさんどこから集まったのだろうかと思うくらいの量が、海沿いに積み上げられていました。たとえて言うと、大型客船をひっくり返したような大きさ高さで、高さは20メートル、長さは100メートル、奥行きも20メートルくらいあったのではないでしょうか。

もちろん、この説教でわたしはただ被災地の様子を紹介して終わるつもりはありません。この大震災の体験をした人々は、今週の福音朗読の中の、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」ではないかと思うのです。この方々のために、わたしは何かをしなければならない。そう期待されていると考えました。

また、たとえ話に出てくる王は、「飢え、のどが渇き、旅の途上にあり、裸であり、病気で、牢にいる」となっています。この姿は、ひとことで言えばイエスの最後の場面にぴったり当てはまります。

イエスは最後の晩餐のあとは何も食べ物を口にしていません。十字架上で渇きを覚え、エルサレムへの旅、ゴルゴタの丘への旅、天の御父のもとへ帰る旅の途上にありました。むち打ちによって体はずたずたにされて病を得、不正な裁判と人々の嘲笑によって囚われの身にあったのです。

王が御自分の姿として描いた様子は、大震災の被災者の姿にも重なります。「飢え、のどが渇き、生活再建という旅の途上にあり、着る物も取り去られ、病気になり、本来の家ではなく、仮設の家にとらわれの身にあるのだと思います。

イエスは言います。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25・40)被災地を訪ねて、広報担当者であるわたしは何をしなければならないかを考えました。

それは何よりもまず、伝えることだと思います。時間が経って、だんだん忘れ去られようとしている「最も小さい者の一人」が本当に立ち直るまで、彼らのことを伝え続けなければならないと感じました。

皆さんにも、これまで同様これからも力を貸していただきたいと思います。カリタスジャパンのボランティアが、現地で大活躍していて、大きな慰めになっていました。例を挙げると、震災で定置網や養殖の網を失った漁業者のところに行って、三重県や北海道から届いた網を、現地の状況に合ったものに作り替えるお手伝いをしていました。わたしたちはカリタスジャパンに募金することで、活動を支えることができます。

大震災の今年、わたしたちは「最も小さい者の一人」を身近に感じ、できることを考える必要があります。「最も小さい者の一人」に仕えることは、キリストを王として認め、王であるキリストに仕える道です。

わたしたちが、まことの王に仕えることによって、社会に王であるキリストを証しすることができますように。「最も小さい者の一人」に仕えることによって、社会に王であるキリストを証しすることができますように。
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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(朗読箇所)
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