主日の福音11/10/30(No.559)
年間第31主日(マタイ23:1-12)
「実行するだけで、言わない人」のいる教会

先週は上五島地区カトリック婦人会のミニバレー大会ご苦労さまでした。まずは、練習のときから参加してくださった皆さんと、当日応援に来てくださった方々にお礼申し上げます。

結果は、浜串教会が強いところとばかり当たって、グループBの4位、福見・高井旅は練習以上の力が本番で出て、チーム始まって以来のグループA準優勝でした。わたしは福見・高井旅からどこかに連れて行ってとせがまれています。嬉しい悲鳴です。

今週の福音朗読に、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(23・11)とあるのですが、浜串チーム、今回はほかのチームに仕える者になってくれたのだと思っています。仕える者になってくれたのですから、いちばん偉いと思います。

では福音の学びに入りましょう。福音書で、だれのことかをはっきり書かないときがあります。イエスが語った山上の説教、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5・3)以下の部分では、はっきりだれと指定していません。

似たようなことは、たとえ話の中でも出てきます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(ルカ10・33-34)「あるサマリア人」と書いてはいますが、それがだれのことかは実際には伏せられています。

今週の福音朗読でもそうです。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(23・11-12)「あなたがた」と言っているので、弟子たちのだれかを言っているように聞こえますが、ではだれなのかと突き詰めると、断言はできなくなります。

こういう場合、1つの考え方を持っているとよいと思います。それは、わたしたちのうちのだれかを探すよりは、イエス・キリストに当てはめるほうが分かりやすい、ということです。「心の貧しい人々は、幸いである。」もちろん当てはまる人がいるとは思いますが、まずそれは、イエス・キリストに当てはまっている生き方です。

旅をしていたあるサマリア人の取った行動は、だれかも同じような態度を取るかもしれませんが、真っ先に、イエス・キリストがこのたとえのサマリア人の態度を取ってくださった方です。そのように考えると、「仕える者になりなさい」というのも、イエス・キリストがそもそも「仕える者」となってくださったのだと考えると、大きな学びを得ることができると思います。

ですから、聖書をぼちぼち読み続けている方にお勧めしたいのは、「これはだれのことなのかなぁ」と考えるようなときは、まずイエス・キリストに当てはめてみると、理解が深まりますよ、ということです。どんな人に当てはめるよりも、イエス・キリストに当てはめて考える方が、聖書の生き方は説明がしやすいのです。

では今週の朗読に当てはめて、イエスはどのようにして「仕える者」となってくださったのでしょうか。いちばん印象的な場面は、最後の晩餐で、弟子たちの足を洗う場面でしょう。シモン・ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(ヨハネ13・6)と驚いています。今週の福音朗読を逆手に取って表現すると、「そのすることは、すべて人に見せるためのものではない」となるでしょうか。

イエスの「仕える姿」には、自分の利益や満足のためではない、自分を無にした「無私」の姿があります。さらに言うと、人に見せない、「隠れた奉仕」の姿があります。この2つの点は、「仕える者」になるための大切な点かもしれません。これも朗読箇所からヒントを得て言うと、「実行するだけで、言わない」態度と表現できるでしょう。

そこで今週の福音朗読からのまとめとして、「実行するだけで、言わない人」という姿を持ち帰りたいと思います。律法学者やファリサイ派の人々と正反対の態度、イエスが常に実行した態度です。わたしたちも、「実行するだけで、言わない人」でありたいと思います。

わたしがこれまでに出会った人の中で、「実行するだけで、言わない人」を2人紹介しましょう。1人は、これまで何回か話に出したかもしれませんが、わたしが神学校の中学生だったときに出会ったおじさんです。母親が弟の急病で有川病院に行き、奈良尾行きのバスが来る時間だったにもかかわらず、わたしはバス賃を受け取らずに取り残されました。

中野のバス停でションボリしていると、「あんた神学生やろ」と声をかけてくれる人がいました。奈良尾まで行けなくなったのだと話すと、1万円札を渡してくれて、「これでタクシーを捕まえて奈良尾に行きなさい」と言ってくれたのです。「おじさん名前は?」と尋ねましたが、「おじさんはおじさんたい。心配せんちゃよか」と言って、わたしを助けてくれました。一生の恩人ですが、今もだれなのか分かりません。

もう1人は、病人訪問で出会ったおばあちゃんです。この人は自分の病気のために祈ることも忘れて、自分の所属している教会が栄えますようにと、ひたすら祈ってくれているのです。わたしがその話を聞くことがなければ、またわたしがこの話を公にしなければ、きっとだれにも知られず、ひっそりと祈り続けていたことでしょう。このおばあちゃんもまた、「実行するだけで、言わない人」ではないかと思います。

わたしたちの教会は、「たがいに仕え合う者」の集まりでしょうか。「実行するだけで、言わない人」がどこかにいるでしょうか。そうした人が、本当の意味で教会を支えてくれているのだと思います。「たがいに仕え合う者」の集まる教会、「実行するだけで、言わない人」がいる教会は、イエスの目に価値ある教会です。わたしたちの教会も、そんな目標をもって関わっていきましょう。そのための勇気と行動力を、ミサの中で願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マタイ25:1-13)
‥‥‥†‥‥‥‥