主日の福音11/10/09(No.556)
年間第28主日(マタイ22:1-14)
イエスが求める婚礼の礼服を着続ける

来週の土日でカトリック神学院、昔で言う小神学校の体験入学がありまして、対象が5・6年生なのでひとまず全員行って来いと声をかけました。高井旅の子はどうしても行けない理由があるそうで、それでは仕方がないということになり、今年は5年生1人、6年生2人を送り込むことにしました。

九州商船は小学生だけを船には乗せてくれないらしくて、同伴の大人を1人お願いしていくことにしています。子供たちが何を見て来て、どのように感じるのか、やはり主任司祭としては気になります。

わたしたちの時代は、もちろん体験入学などというものはありませんでした。体験もせずに新学校に入学して、ある同級生は家が恋しくてしくしく泣き、ある同級生は神学校にいられなくなるために悪さをし、ある人は神父さまになる気はないのに居心地がよいとかいろんな勉強ができるとか下心があって留まり、いろんな形で中学高校時代を過ごしました。

それでも、神さまは何人かは、ご自分の身分を受けて働く司祭を選ばれ、イエスのために喜びも苦しみも分かち合う人を最終的に残してくださいます。わたしたちは入学時点でたぶん17人いたと思います。

翌年編入生があって18人、その中で司祭になったのは4人、今でも司祭であるのは3人です。これまで14年の準備期間と、その後の19年半の司祭生活を思う時、福音朗読のいちばん最後、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(22・14)というみ言葉は、考えさせられるものがあります。

イエスの最後の締めくくりの言葉に至るまでに、たとえ話が用いられていました。ある王が、王子のために婚宴を催しましたが、招待された人々はそれを断りました。

本来招かれるべき人々は、招待状を書くほどの身分であるとか、学歴であるとか、社会的地位であるとか、いろんな優先事項があったに違いありません。けれども、彼らは王の招待を最優先には考えませんでした。

教会が保たれていくために、信徒を導く司祭が必要なことは百も承知ですが、有名大学に入れるとか、将来会社の後を継いで大勢の社員を引き連れていく人とか、何かの分野に長けている人たちは、ほとんどの場合社会での活躍が優先となってしまいます。まずこの時点で、社会で活躍することを目指す人は神学校に入学しないのです。

それでも王は婚宴に人を招くために、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来ます。神学校に入学することになる子供たちも、社会貢献が見込まれる最優先の家庭からではなく、通りに普通に住んでいる家族の中から、空の手で、神学校に入学します。神学校に入ったら、たとえにあるような、礼服を着ていない人はほうり出されることになります。

同級生18人のうち、1人は中学3年生で病気のために命を落としました。中学3年生になり、高校受験を控えると、神学生として上の学年に上がるのではなく、公立高校に入って別の道を目指す人が現れてきます。それでも、12人は留まりました。高校3年生の時に7人減って5人となり、5人で大神学校に入り、4人は司祭に叙階されましたが、今は3人です。

いろんな場面で、人数が減っていくのを今振り返る中で、「礼服」とは何だったのだろうと考えました。司祭に期待される部分を拾ってみると、祈る人という部分が必要ですが、わたしはそんなに祈る人でもないし、今年などはこの19年半の司祭生活の中で自分の教会でミサをするのがいちばん少ないのですから、祈る人ではないのです。去った人の中でわたしより祈る人はいたのです。

よく学ぶ人という部分も必要でしょう。わたしよりもよく学んでいた人が、中学で1人、高校で2人別れていきました。3人は、常にわたしよりも成績が良かったのに、選ばれませんでした。礼服は、よく祈るということだけでもないし、よく勉強するということだけでもないようです。

まじめな人柄という部分も必要でしょう。それもまた、そのまま礼服を意味するわけではないようです。2年前に、南山高校卒業20周年で同窓会が開かれ、懐かしい人に会いましたが、彼が母親の介護をするために神学校を去ったことを初めて聞き、ふまじめだったから去ったのかと思っていたわたしは、申し訳なかったなぁと思いました。ふまじめと言うなら、わたしは同級生の中でいちばんふまじめです。

結局、「礼服」とは、「わたしがあなたを選んだのだ」という招きを最優先にする気持ちではないかと思いました。自分でついていくには、ふさわしくないと感じることが多々あります。大きな躓きを抱えていたり、判断を誤って神の望みを踏みにじったりしているのですが、それでもイエスは「わたしがあなたを選んだのだ」と仰ってくださいます。

選んでくださったことで、喜ぶこともありますが苦しむことはその数倍あり、しばしば悩み、うつむいてしまうのです。申し訳ないと、何度も思いますが、「わたしがあなたを選んだのだ」という声を、最優先にするしか生きる道を考えられないのです。そういう繰り返しが、「婚宴に着る礼服」なのではないでしょうか。

結婚生活にも、修道生活にも、「婚礼に着る礼服」が必要でしょう。結婚した人が苦しまないということは決してありません。修道生活もそうです。けれども、苦しみがあっても、「わたしがあなたを選んだ」と仰るイエスの言葉を、最優先にするしか生きる道はないと考えてほしいのです。

あなたが、置かれた生活を全うするには、イエスの招きを最優先にする、その思いを「礼服」として着続ける必要があると思います。神学院体験入学を来週体験する子供たちが、自分にふさわしい「礼服」を見つけ出すことができるように、祈り続けたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マタイ22:15-21)
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