主日の福音11/10/02(No.555)
年間第27主日(マタイ21:33-43)
収穫の時期を一緒に過ごす僕

先週司祭団のソフトボール大会に出かけてきました。五島チーム、長崎チーム、佐世保平戸チーム、浜口司教さま率いる大分連合チームの4チームで試合をしました。優勝は五島チームでした。

五島チームはメンバーが15人くらいいましたが、浜口司教さまが連れて来た大分連合チームは7人しかいなくて、五島チームから選手を譲ってくれという話になり、五島チームでレギュラーに入れないわたしは、真っ先に大分連合チームに奉公に出されました。

試合は、初めに佐世保平戸チームと五島チームから始まって、五島チームが力の差を見せつけての勝利でした。次に長崎チームとわたしが奉公に出された大分連合チームとで試合をしまして、接戦で大分連合チームが長崎チームを下しました。このときわたしに2回打席が回ってきまして、最初の打席でヒットを打てたので安心しました。

午後からは、1敗したチーム同士の試合を先に始めまして、長崎チームが勝利。これで佐世保平戸チームが2敗、長崎チームが1勝1敗です。次に午前中に1勝したチーム同士試合をして、どちらか2勝したチームを優勝とすることになりました。

わたしは大分連合に奉公に出されていましたが、優勝をかけた午後の試合では呼び戻されて五島チームに入り、代打で呼ばれるのをじっと待っていました。試合は一方的な展開で、五島チームが初回に9点入れて、早々にわたしに代打が回ってきました。

来た球を思い切り強打したのですがファーストの浜口司教さまが逆シングルでキャッチして、ヒットを1本損してしまいました。五島チームの選手の中には、本番でも力を発揮した選手もいましたが、わたしのように本番では結果につながらず、苦戦した人もたくさんいました。

それでも、全体としてはけがもなく、本当に楽しい大会でした。試合の終盤にはわれらが大司教さまも応援に駆け付けて、嫌がるのを無理に打席に立たせたりもしました。ヒットは打てませんでしたが、出てくれただけで大盛り上がりでした。総じて、楽しい大会になりました。

今週の福音朗読ですが、押さえておきたい点を話してみたいと思います。ぶどう園の主人は、「収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」(21・34)とあります。収穫のちょうどの時ではなくて、「収穫の時期が近づいた時」ということは、もう少ししたら収穫という意味です。まだ収穫できないのに、なぜ僕たちを送ったのでしょうか。

考えてみたのですが、僕たちは収穫の時期が近づいたころから農夫たちと一緒に過ごし、農夫の苦労を一緒に分かち合い、農夫の気持ちを理解しようとして、早めに送り込まれているのかもしれません。収穫だけを持ち去る冷たい主人ではなくて、一緒に苦労も分け合う主人の姿を教えたかったのではないでしょうか。

ところが、農夫たちはその僕たちを受け入れません。一緒に苦労を分け合いたい。一緒に喜びを分け合いたいという主人の思いを農夫たちのよこしまな気持ちで無にしてしまいます。同じ思いで、他の僕たちを送りましたが、それでも主人の思いを信じようとしませんでした。

ぶどう園の主人は最後に、自分の息子を農夫のところに送ります。本当に、農夫たちと喜びあいたいという気持ちの表れでした。けれども、その最後の願いも踏みにじられてしまいます。

実はこの僕たちは旧約の預言者たちでした。神は、神に従う生き方を人間と分かち合いたくて、預言者たちに義の道を示す活動のために送りましたが、イスラエルの人々は預言者を常に迫害しました。神に従う生き方を受け入れて喜びを分かち合おうとしなかったのです。

最後には、独り子イエス・キリストを遣わして、神に従う生き方は喜びにつながりますと知らせたのですが、イスラエルの人々はイエスの示す生き方を拒み、エルサレムの町はずれのゴルゴタでイエスを十字架にかけてしまいます。

預言者を送り、時間をかけて、神の望みを示して、幸せな生き方を喜び合いたかったのに、人々はそれを拒みました。イエスも、たとえを語り、わたしたちのもとに来て一緒に暮らし、時間をかけて神の望む生き方を示してくれました。

わたしたちが、もしイエスの示す生き方を拒み続けるなら、ぶどう園で働く農夫と同じ過ちを犯すことになります。そして、ぶどう園の外に放り出されてしまいます。ぶどう園の主人として現れる父なる神もおん独り子イエス・キリストも、実りを催促したのではありません。苦労も分かち合うから、喜びを分かち合いたいと期待しただけなのです。

精一杯の世話をしても、分かってもらえないなら悲しいものです。わたしたちにも同じ経験があるかもしれません。そんなとき、「親の気持ちがどうして分からないんだ」と腹を立てたりするかもしれません。もし、こうした経験を持っているなら、わたしは神に、同じ思いをさせていないか、考えることにしましょう。

神は、精一杯の世話をして、時間の猶予も与えて、わたしたちが神の望みに応えてくれるように待っています。神の深い思いやりに答える生き方を選び取ることができるように、ミサの中で願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マタイ22:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥