主日の福音11/09/25(No.554)
年間第26主日(マタイ21:28-32)
ぶどう園で働く素晴らしさをもう一度考えよう

わたしたちは目上の人に対して、3つの態度を取ることができます。1つは、「はい」と答えて、目上の人の願いを受け入れること、2つ目は、「いいえ」と答えて、目上の人に反対する立場を取ること、そして最後に、「はい」と答えていながら、願いを聞いたふりをすることです。

この3つの態度のうち、わたしたちは2つの態度を多く取っているのではないでしょうか。「はい」と答えて、願いを受け入れる形と、「はい」と答えていながら、聞いたふりをすることです。「いいえ」と答えることは少ないのではないかと思います。

今週の福音朗読箇所は、ある人が息子二人にぶどう園へ行って働いてくれるように言った時の応答からたとえ話が始まっています。そして、いちばん大事な箇所は、父の言いつけに対して兄が「いやです」と答えたのですが、後で考え直して出かけた、この部分だと思います。

わたしは先に、自分たちはなかなか「いやです」とは答えないということを話しました。父の言いつけですから、なかなか「いやです」とは言いにくいと思います。さらに、日本人は「いいえ」とはっきり言うのが苦手な国民で、「いやです」と言うくらいなら、しぶしぶ「はい」と答えるため、兄の「後で考え直して出かけた」という姿を理解するのは難しいかもしれません。

兄が「いやです」と答えた事情を推理しました。兄が「いやです」と答えたのは何か理由があったのでしょう。以前にぶどう園で働いたことがあるのかもしれません。あんな辛い仕事はいやだ。そう考え、「いやです」と答えたとしても無理はありません。

または、自分に予定があって、重なってしまったのでしょうか。友人と宴会を開く予定があったのでしょうか。自分にとって楽しい予定が先に入っていたら、たとえ父の願いでも断りたくなるのは理解できます。

兄が「いやです」と答えた時、父親はどう思ったでしょうか。父親の反応は記されていませんが、兄の事情を十分理解していた可能性があります。父親ですから、息子がどんなことを考えているのか、ある程度は理解しているでしょう。「いやです」と、生れてはじめて口答えしたのかもしれません。すると、息子に「いやです」と言わせた事情くらいは思い至るのではないでしょうか。

父親は兄の決断に任せます。兄がいったん決めたことだから、それを尊重します。自由を尊重して、息子であっても一人の人間として、尊重してくれたのだと思います。

いったん「いやです」と答えた兄は、後で考え直して出かけました。父親は「いやです」と言った自分を責めたりしませんでした。自分で決めたことを、尊重してくれました。

「いやです」と言ったことを責められなかったことで、却って兄はよく考えることができたのではないでしょうか。父は、どんな思いでわたしにぶどう園で働くように声をかけたのだろうか。わたしが今抱えている事情も知った上で、頼みに来たのではないだろうか。父の穏やかな態度が、後で考え直すきっかけを作ってくれたのかもしれません。

このたとえは、当時洗礼者ヨハネの証しを受け入れなかった祭司長・長老たちと、ヨハネの証しを受け入れ、悔い改めた徴税人や娼婦にあてて話したものでした。

たとえ話の弟は、一見言うことを聞いているかのような態度を取りましたが、聞いているふりをしていただけでした。聞いているふりだけするのは、「いやです」と答えることよりも罪深いような気がします。

一方徴税人や娼婦たちは、自分たちが洗礼者ヨハネの証しに背を向けて生きてきたことを知っていました。けれども洗礼者ヨハネがだれも差別することなく義の道を呼びかけてくれたので、後で考え直して悔い改めたのです。

ぶどう園である神の国は、招かれなければ入ることはできませんが、招かれても、「いいえ」と断れば入れません。洗礼者ヨハネの証しを聞き入れた人々は、それまでの生き方は「いやです」という生き方だったのですが、考え直して悔い改めました。彼らはぶどう園である神の国に、後で考え直したことで先に入ることができたのです。

宗教指導者たちは、2度のチャンスがあったのに無駄にしてしまいました。洗礼者ヨハネの証しを聞いたふりをしてやり過ごし、徴税人や娼婦が悔い改めたのを見ても、自分たちには関係がないと無視したのです。

ではわたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、素直に「はい」と聞き入れることができず、「はいはい」と言って聞いたふりをすることが多いのではないでしょうか。もしそのままで終わってしまったら、わたしたちはかつての宗教指導者と同じ過ちを犯すことになります。わたしたちにも、後で考え直すチャンスが残されているのです。

親子の間で、夫婦の間で、職場で、日常の様々な場所で、「はいはい」と聞いたふりをしている場面がないでしょうか。相手のお願いが誠実なものだと知っているなら、後で考え直してみましょう。「ぶどう園へ行って働きなさい」とお願いしている人は、あなたのことを見込んでお願いしているかもしれません。

後で考え直すチャンスは、無限にあるわけではないと思います。もしも相手の願いが洗礼者ヨハネの証しのように真剣なものであったなら、たとえ「いやです」と答えても、後で考え直すことはぜひおこなってほしいと思います。

ぶどう園に行って働く、ぶどう園のために働くことのすばらしさを、あらためて考える機会を与えてくださいと、このミサの中で願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マタイ21:33-43)
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