主日の福音11/09/18(No.553)
年間第25主日(マタイ20:1-16)
どんな人も神のぶどう園にかかわらせたい

今週の福音朗読から、おそらく、気付かずに読み飛ばしてしまうであろう一言を取り上げて、説教に充てたいと思います。それは、ぶどう園の主人が発した「友よ」(20・13)という言葉です。

ぶどう園の主人は、誤解している相手に対して、「友よ」と呼び掛けています。まる一日、暑い中を辛抱して働いた労働者の一人は、主人の思いを理解せず、不平を漏らしていました。その相手に、ぶどう園の主人は「友よ」と呼び掛けています。

福音書を調べてみると、「友よ」と呼び掛けている場面が4か所ありました。そのうちの3か所はマタイ福音書の中に出てきます。あと1か所はルカ福音書で、「友よ、パンを三つ貸してください」(11・5)という言い方で、これだけがほかの3か所と違う使い方なので外します。

残るマタイ福音書の中の3か所ですが、1か所は今週の朗読部分です。2か所目は、「天の国をたとえる婚宴の物語」で、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」(22・12)と王が婚礼の客に問いかける場面です。王の思いを誤解している相手に語りかけています。

3か所目は、イスカリオテのユダに対してイエスが語り掛けた言葉です。「友よ、しようとしていることをするがよい」(26・50)と言う場面で、ユダが兵士たちを従えてやってきて、イエスを捕えます。誤解しているユダに、イエスが語り掛けています。

つまり、マタイ福音書に限って言えば、「友よ」と呼び掛ける場面はどれも、誤解している相手に呼びかけていることになります。では、今週のぶどう園で雇ってもらった労働者は、何をどう誤解したのでしょうか。

物語で不平を述べる労働者は、長時間働いた自分たちと、1時間しか働かなかった労働者とを同じ扱いにしたと言って不平を述べました。ぶどう園の主人が支払う賃金を、労働時間の報酬と見ていたのです。労働時間の報酬であれば、1時間しか働かなかった労働者が1デナリオンもらえるのであれば、自分たちはもっと多くもらえるだろうと考えるのは当然のことです。

ところがぶどう園の主人は、皆に分け隔てなく1デナリオンの賃金を支払っています。主人が賃金を支払う理由に考えたのは、どんな人も、ぶどう園の収穫にあずからせたい。すべての人を、ぶどう園で雇いたい。その証しとして、賃金を支払ってあげたのだと思います。

自分の考えに縛られると、人はしばしば違う人の考えを理解しなくなります。不平を言う労働者たちは、自分たちの考えに縛られて、ぶどう園の主人の考えが見えなくなっていました。わたしたちも、自分の考えに縛られると、わたしたちの唯一の主人である父なる神の考えが見えなくなる危険があります。

なぜイエスは、悪人も救おうとして十字架に磔になったのでしょう。善人だけ救おうと思えば、十字架など必要なかったでしょう。でもこうした考えは、人間が自分たちの考えに縛られて、父なる神の考えが見えなくなっているのです。イエスは、すべての人を天の国に招きたくて、十字架に磔にされました。だれも、天の国と無関係なものにしたくなくて、十字架に磔にされたのです。

なぜイエスは、「迷い出た羊」を探しに行くのでしょうか。「迷い出た羊」を探しに行く間、残りの九十九匹は多少危険にさらされてしまいます。それでも探しに行くのは、一匹でも自分の懐から、神とのかかわりから漏れる羊が出るのを望んでいないからです。

今週のたとえがわたしたちに求めているのは、自分の考えに縛られると父なる神の望みが見えなくなるから、十分注意しなさいということです。朝早くにぶどう園の主人に雇われていれば、後でいろんな時間に人が雇われて追加されているのが手に取るようにわかったはずです。

その時点で、ぶどう園の主人はどんな思いでおられるのかなと考える必要がありました。最後は1時間しか働かない人もぶどう園に送り込んだ。ぶどう園の主人の気持ちを考えるなら、ほんの少しの時間でも、ぶどう園にかかわらせたかったのだなぁと気づいたことでしょう。

現代には、ぶどう園の主人の思いを知ろうとする人は必要でしょうか。変わらず必要だと思います。何もしないで立っている人を、ほんのわずかの時間でもぶどう園に関わらせる、そんな働きをしてくれる人が現代にも必要です。

「この連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20・12)そう不平を鳴らす人に、「友よ、あなたに不当なことはしていない」とていねいに諭す人が必要です。

それは分かりやすく言えば、司祭や修道者たちです。ほんのわずかでも、何もしないで立っている人がぶどう園である教会に関わる人になるように働きかける。同じ扱いを不平に思う人に「友よ」と呼び掛ける。

これらは、ぶどう園の主人の思いのためだけに働く人でなければなかなかできない働きです。それができるのは、司祭や修道者たちです。今日のぶどう園の主人のように、みんなをぶどう園である教会に近づけてあげる人になりたいと願う子供たち・青年が手を挙げることを心から期待します。

またぶどう園の主人の思いを受け継ぐために子供の背中を押してくださる家庭に、心から期待します。今日は敬老者のためのミサですが、すべての人をぶどう園である教会に導こうと働くことは偉大な仕事だよと、子供や孫と一緒に語り合ってほしいと思います。

今、敬老者は年寄り扱いすべき人たちではありません。語り掛け、人を動かす十分な影響力を持っている人たちです。どうぞ、自分の身の回りで、偉大なことに目を向ける子供たちを応援してください。よろしくお願いいたします。
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‥次の説教は‥‥
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(マタイ21:28-32)
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