主日の福音11/09/11(No.552)
年間第24主日(マタイ18:21-35)
条件を付けずに人を赦そう

どうしてわたしたちは、人を赦せないのでしょうか。たとえそれが、仲間であっても、人を赦せないときがあるのはなぜでしょうか。わたしはいまだに、心の底から赦せていない仲間がいます。彼は今、県外にいて、わたしはその人ともう一度会うことができるかどうか分からないのです。すると、わたしは一生彼を恨みに思ったまま、わたしが死ぬか、彼が死ぬか、いずれにしても心から兄弟を赦さないまま、この世を去ってしまうことになるかもしれません。

その彼はもと大神学生で、わたしが記憶している限り、不仲になったきっかけは些細なことでした。大神学院で夕食後の休憩時間、広間でみんなでテレビを観ていました。そのテレビの番組を、わたしがさんざんケチを付けながら観ていたのです。「そんなことが実際あるはずがない」とか、「そんなことができるのなら、だれだって実行しているはず」とか、番組を冷やかしながら観ていたのです。

すると彼は、相当がまんした挙げ句だったのでしょう。さまざまケチを付けていたわたしに彼が向き直って、「うるさい!黙れ!」と大声を上げたのです。大勢でテレビを観ているのですから、番組に対していろんな意見があるわけです。けれども、それをわざわざ口に出して、黙って観ている人たちの心を乱すようなことをすべきではなかったと思います。

なんと、それが原因で、わたしと、同級生のその彼とは、その後4年間も、一言も口をきかなくなりました。同じ大神学院に住んでいて、一言も口をきかずに、暮らす羽目になったのです。当然、一緒に行動することはなくなりました。仲間も別々、することも別々、一切口をきかずに済むような行動をそれぞれ取ったのです。

でもどこかでは、仲直りをしなきゃいけないなぁと反省していました。同じ大神学生ですから。同じ、司祭を目指す仲間ですから。いつまでも仲違いしたままで生きていけるはずがありません。それはお互い感じていたと思いますが、なかなかチャンスが巡ってきませんでした。

仲直りのチャンスは巡ってきました。テニスをしていたときです。たまたま、練習相手をジャンケンで決めるときに、彼もそこにいました。そして、ボールを打ち合う相手に、彼が決まったのです。ほとんど、口をきくことはありませんでしたが、ボールを打ち合う中で、4年ぶりに相手を気遣いながら時間を過ごしたのです。

なぜ、こんなに簡単なことが今までできなかったのだろうか。そんなことを思いながらわたしはボールを打ち返していました。あるいは、彼はもっとずっと早くから、わたしのことを赦してくれていたのではないだろうか。そんなことも考えました。わたしの独り相撲で、彼は今も腹を立てている、そう思って仲違いをしたまま、ここまで来たのかもしれない。いろんなことを思いながら、長い時間テニスコートを挟んでボールを打ち合ったのでした。

「人を失う」というのはとてつもなく大きな損失です。わたしは危うく、大神学院の同級生10人の中の1人を失うところでした。かろうじて、テニスボールを打ち合って、仲直りを果たしたのですが、本当のことを言うと、その時に仲違いの原因を詫びもしなかったし、これからまたよろしくねという簡単なあいさつさえも交わさなかったのです。

じつはそれが、一生の悔いになってしまいました。テニスをして長いわだかまりが解けたと思った矢先、彼は大神学院を退学し、家業を継ぐことにしたのです。夏休みが終わって大神学院に戻ってみると、彼の姿はありませんでした。わたしはとうとう、言葉で彼と仲直りをすることなく、卒業し、司祭になったのです。彼と会うことは、もう二度とないかもしれないと思うと、本当に申し訳なかったなぁと悔やみきれません。

きっと心の中では、お互いもう過去のことは赦していると思います。ですが、イエスの言葉は、わたしの心に突き刺さるのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18・35)ひとまずは、わたしと彼は赦された仲だと思っています。けれども、「心から」「心の底から」ということを考えると、そこまでではなかったかもしれない。そう思うのです。

たとえ話の中で、一万タラントン借金している家来が自分の仲間の百デナリオンの借金を赦さず、首を絞めた上に牢屋に投げ込んでいますが、その態度は、主人にとってははらわたの煮えくりかえるような思いだったことでしょう。日本のお金で数十億円の借金を赦されていながら、主人の恩を理解しなかったからです。

主人は、家来がこれからも自分の家来であることを大切にしたかったので借金を赦してあげたのです。主人が赦さなかったら、多額の借金をした家来は、もはや絆を失ってしまうからです。主人と無関係の者、それは言い換えると、天の国と無関係の者になってしまう。そのことを哀れに思って、主人は借金を赦してあげたのです。

わたしは、過去のわたしの苦い経験と重ねて考えました。わたしの同級生は、わたしを何とか赦してあげようと思っていたのかもしれません。大神学生として、仲間外れにしたくなかった。けれどもわたしは、その思いを無視して、テレビを観ている全員の和を平気で乱そうとしていました。わたしを無関係な者にしたくなかったので、懸命にこらえていたのかもしれません。

けれども、「かわいさ余って憎さ百倍」と言いましょうか、ついに限度を超えたので、仲間として、わたしを諫めようとしたのだと思います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18・33)わたしは今の今まで、自分を「仲間を赦さない家来」の立場に置いたことがなかったのですが、じつは今の今まで、わたしは「仲間を赦さない家来」だったのです。

何十億も借りのある人を赦してあげたのは、その人が天の国と無関係な者とならないためでした。わたしたちは、誰かを天の国と無関係な者にしてしまってはいないでしょうか。お金絡みで、問題のある人が周りにいるかもしれません。お金の問題がない立場の人々が、もしその人を断罪してしまうと、その人は天の国と無関係な者になってしまいます。「人を失う」ということはとてつもなく大きな損失なのです。

どうか、イエスがたとえ話で示された主人、父なる神の寛大さで、誰かを天の国と無関係な者にしないようにしていただきたいと思います。そのような態度は、いつまでも悔いの残る結果になってしまいます。天の父に倣って、わたしたちも心から兄弟を赦してあげることができるように、力を願うことにしましょう。
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(マタイ20:1-16)
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