主日の福音11/08/21(No.549)
年間第21主日(マタイ16:13-20)
揺るぎない信仰を見て、イエスは鍵を授ける

聖母被昇天の8月15日、今年は月曜日で翌火曜日が夕方のミサだったこともあってお休みを取らせてもらい、鯛ノ浦の実家に泊まりに行きました。実は末っ子でたった1人の妹がお産のために里帰りしておりまして、様子を見に行きたいという理由もありました。

妹はあと1カ月で出産の予定でして、よほどお腹が大きくなっているのだろうと見に行きましたら、わたしのお腹とたいして変りないくらいの大きさでした。わたしが適当に名前を付けてやろうかと妹に言いましたら、冗談じゃないと断られました。

さて今週の福音朗読は、ペトロがイエスへの信仰を言い表す場面です。ペトロが信仰を言い表した時の言葉と、イエスがペトロに約束してくれた天の国の鍵を授けることと、2つについて考えてみましょう。ペトロはイエスへの信仰を次のような言葉で言い表しました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」(16・16)

非常に短い信仰宣言です。一言で言い表した、と言ってもよいでしょう。そこには、「あなたはわたしにとってすべてです」という力強い信仰が込められているのだと思います。

もう1人、立派に信仰を言い表した弟子として、復活後のトマスを挙げることができます。彼は最初イエスの復活を信じなかったのですが、最終的に「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)と答えました。これも、「あなたはわたしのすべてです」という気持ちが込められていると思います。

ペトロの信仰告白を聞いたわたしたちは、まず、「あなたはわたしたちのすべてです」という信仰を表すことができるか、考えてみる必要があります。「イエスさま、あなたはわたしのすべてです」と言い表すことは、生活のすべての場面に、イエスさまへの信頼を優先させるということです。

家庭で、親が子供に何を第一だと教えるかは大切なことです。「勝つことがすべてだ」「何をしても自分が生き残ることがすべてだ」どんな原則を教えることも可能ですが、「イエスに信頼することがすべてだ」と教えることができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

わたしも、大いに反省するところがあります。1週間を区切りとして、「イエスがわたしのすべてだ」と考えて過ごしてきたかと振り返ると、実行できていないと恥ずかしくなります。釣りに行きたいなぁと思えば鉄砲玉のように飛んでいくし、説教を今よりももっと時間をかけることができるのに、いよいよになるまで準備を後回しにするし、本当に恥ずかしい限りです。

わたしたちにとって、ゆるぎない確信のもとに「イエスさまこそわたしのすべてです」と言い切ることができるなら、わたしの生活は表面的には今のままでも中身がすっかり変わるのではないでしょうか。

「イエスさま、あなたはわたしのすべてです。」このような信仰を言い表したペトロに、イエスは天の国の鍵を授けてくださいました。この、天の国の鍵は、人々を天の国に入りにくくするための鍵ではなく、1人でも多くの人を天の国に案内するための特別な権能、そう理解してよいのではないかと思います。

わたしの中には、「この人の心をすっかり天の国に向かわせたい」と思っている人がいます。地上には目を奪われそうな魅力的なものがたくさんあって、わたしが思っているその人を特にひきつけているものが何であるかもおおよそ分かっています。それでも、目を奪われている地上のものから離れて、天の国を見つめて生きる決心をさせたい人がいるのです。そのためには、わたしも、イエスから鍵を授けてもらう必要があると考えています。

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」この言葉を、わたしもイエスから掛けてもらいたいと思っています。天の国を一心に見つめて生きていくように導く魔法の鍵といいますか、そういうものを授けてもらいたい。そう思うのです。

そのためには、説教の初めに考えたことが深くかかわっていると考えます。すなわち、わたしの信仰です。「イエスはわたしのすべてです」と、揺らぐことなく言い切る。その信仰をイエスが受け入れてくださった時、わたしにも天の国の鍵が授けられるのではないかと思っています。

ペトロは、1人でも多くの人を天の国に導くために鍵を授かりました。わたしは、1人でも2人でも、天の国をひたすら見つめて生きる人を掘り起こすために、イエスから鍵を授けてもらいたいと切望します。そのためにも、いつも、どんな場面でもイエスが優先するという生き方を全うしたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
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