主日の福音11/08/14(No.547)
年間第20主日(マタイ15:21-28)
神の与えるパンに養われ導かれる
小学生の皆さん、ドッヂボール大会は本当に惜しかった。予選1位通過が最初の関門だったけれども、予選2位通過になってしまって、緒っとハウステンボスは届かなかったね〜。代わりに、少し価値は下がるけれども、全員ソフトクリームを帰りに食べることができたので、良かったですね。来年、もっとレベルアップして、予選1位通過でもっと上位を狙いましょう。
イノシシの話は、もうすでに広まっているでしょうか。たぶん、噂が噂を呼んで、全員がこの話はご存知でしょうから、省略します。イノシシに車をぶつけてしまって、修理にかかった費用は76230円でした。
最近食べ物のことでわたしが気になることが1つあります。トウモロコシのことですが、最近のトウモロコシはなぜか甘いですよね。果物みたいとは言いませんが、塩味のトウモロコシしか知らないわたしには、ちょっと違和感があります。しかも、生でもかじることができるくらい、やわらかい。
そこから話がつながっていくのですが、一般に、人は親が与える味付けの食べ物を食べるものです。とうもろこしにしろ、卵焼きにしろ、親がつけた味が、食べ物の味として子どもに植え付けられていきます。人は、親が与える「食べ物」を食べるのです。
今週の福音朗読に当てはめてみましょう。イエスがカナンの女に語ったたとえの中に、「パン」が出てきました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(15・26)人は、親が与える「パン」を食べるものです。
ここで言われている「パン」はもちろん食べ物としてのパンでもありますが、わたしは、「親が与える生き方、考え方」と考えてもよいと思います。人は、親から与えられる生き方、考え方を食べて育っていくのです。
イエスが念頭に置いて話している親子関係は、ユダヤ人社会の中での親子関係です。ですから、ユダヤ人の親が子に与える「パン」、言いかえるとユダヤ人が親から子に伝える考え方、生き方は、「神の望みにかなう考え方、生き方」のことです。
この「神の望みにかなう考え方、生き方」を、ユダヤ人の親がその子に与えずに、わが子を差し置いて外国人に与えるということは考えられない態度のはずです。わが子を神の望みに向かわせようとしないまま、外国人を神の望みに向かわせようとするのは物事の順序を外れています。
ですから、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになったのです。すべてのユダヤ人が、神の望みにかなう生き方を身につけてから、外国人にも同じ生き方の門が開かれるべきだと、イエスは原則を説いたわけです。
ところが、カナンの女性は見事に食い下がりました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15・27)イエスが諭された原則はもっともなのですが、外国人も、唯一の神の望みにかなう考え方、生き方を教えていただいて、唯一の神をたたえることはゆるされるはずです。カナンの女性はその点をイエスに認めてもらいました。
わたしたちにも、カナンの女性の信仰が必要です。機転の利いた答えばかりに目を奪われがちですが、その中心にある考え方は、「わたしたちは、神の望みにかなう考え方、生き方をいただいて養われたいのです」という願いです。
イエスに願うのは、今の苦しみから逃れたいとか、目の前の困難を避けて通りたいとか、初めはそうした願いかもしれません。けれども、目の前のことをいくつ解決しても、きりがないのです。それは買い物と同じです。目の前の必要を満たす買い物をどれだけしても、買い物にきりはないのです。
むしろ、「今の困難の中で、神の望みにかなう生き方ができるよう、導いてください」と声を上げることが大事です。これが、カナンの女性の信仰につながっていきます。「どれだけ買い物してもきりがありません。物の多い少ないでわたしの価値は変わったりしないことを、教え導いてください」と、声を上げたいものです。
小学生の皆さん、ドッヂボールで来年もっと上位になれるように祈ってください。あわせて、この大会で神さまはわたしをどこに導いてくださるのですか、もしかしたら神父さまやシスターになるように導いてくださいますかと、尋ねてみてほしいと思います。
神は今日、目の前のパンだけでなく、永遠の命に至るパンも与えようとしておられます。神が与えてくださるパンを食べ、神の招きに気付いて日々歩んでいくことができるよう、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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