主日の福音11/08/07(No.546)
年間第19主日(マタイ14:22-33)
イエスは手を伸ばして捕まえてくださる
先週、雲仙で開催された「召命フェスティバル」に、小学5・6年生の4人を連れていきました。もっと下の学年から連れて行ってもよかったのですが、司祭・修道者への神さまの呼びかけを真剣に考えるためには、今回の判断は適当だったと思っています。
もちろんすぐに司祭になりたい、シスターになりたいと言い出す子供はいないと思いますが、今回の集いで見たこと、考えたことは、これから召命を考える財産になると思います。
いろいろな修道会のシスターたちを見ましたし、司祭が身近なところできっかけをつかんで神学校に行くようになるということも、分かりやすく教えてもらったと思います。あとは、自分の身近なところで、神さまの特別な呼びかけを見つけてほしいと願っています。
今週は、ペトロが湖の上を歩くイエスに近づこうとする話です。弟子たちはイエスに促されて舟に乗り込み、向こう岸へ渡ろうとしています。舟は逆風のために並に悩まされます。舟はまた、「教会」の象徴とも言われています。嵐にほんろうされる舟は、教会の姿でもあるわけです。
そこへイエスが、湖の上を歩いて弟子たちに近づきます。ペトロがイエスに信頼を置いて舟から湖に乗り出し、イエスに近づこうとしますが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたのでイエスに助けを求めました。これも、降りかかる試練や迫害に怖くなって助けを求める教会の姿でもあります。
そんな信仰の薄いペトロを、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「なぜ疑ったのか」と声をかけました。イエスは、ペトロが怖くなったことを責めたりはしません。むしろ励ましました。ペトロは信仰を持っていなかったのではなく、信仰が薄かったので、励まして、本来の信仰に立ち返らせようとしたのです。
今もイエスは教会に手を伸ばし、「なぜ疑ったのか」と声をかけます。教会の民は信仰が薄いために怖くなることがありますが、「主よ助けてください」と呼び掛ける者には、すべて励ましの言葉を与えてくださいます。怖くなったことを叱るのではなく、怖くなっても信じ続ける信仰をイエスは求めているのです。
イエスへの信仰を持たないことと、信仰が薄いこととは違いがあります。イエスへの信仰がない人は、イエスに導いてもらうことをしませんが、信仰が薄い人であれば、イエスの導きを求めてきます。ペトロは。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14・28)と願いました。教会もまた、迫害や異端に悩まされたり道をそれた時、イエスに導きを願いました。
信仰がなければ、イエスに助けてくださいと叫ぶこともありませんが、ペトロは怖くなったときにイエスに助けを求めました。教会も、危険を前にして常にイエスに助けを求め、手を伸ばして捕まえてもらっています。わたしたちはみな、信仰を持っていないのではなく、信仰が薄いために道をそれたり怖くなったりしているのです。
常に、一歩を踏み出す必要があります。イエスがわたしたちに「来なさい」と呼び掛けるときは必ず、そばにいてくださるのです。怖くなり、沈みかけた時にすぐに手を伸ばして捕まえることができるように、近くにおられるのです。そのことを信頼し、常に一歩を踏み出すことが、今週わたしたちにも求められているのではないでしょうか。
家庭で、祈りの習慣が身につかないと悩んでいる人もいます。教会に足を向けてくれないと心配している保護者がいます。一歩を踏み出す必要があるのです。あなたが一歩を踏み出す時、もしも沈みかけて怖くなったら、イエスは必ず手を伸ばして捕まえてくださいます。信頼して、今日の一歩を踏み出しましょう。
司祭を目指す子供たちが少ないと、教区全体でとても心配しています。召命フェスティバルに参加したことで浜串教会も一歩を踏み出しました。思い悩んで沈みそうになったら、助けてくださいと正直に叫びましょう。きっとイエスが助けてくださいます。
わたしたちが、イエスへの信仰を生活の柱に据えて生きる。この決意で一歩を踏み出しましょう。不安が生じ、怖くなった時は助けを求めましょう。いつもイエスは、手を伸ばして捕まえる距離を保って、わたしたちを導いてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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