主日の福音11/07/24(No.544)
年間第17主日(マタイ13:44-52)
あなたの生活の中に、宝が隠されている

今週イエスは、天の国を宝物を探す様子に例えています。畑に宝が隠されていて、宝を見つけた人は持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。または、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、それを買います。あるいは、網が湖に投げおろされ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てます。

いずれも、貴重なものを見分け、見つけたら他のすべてをなげうって手に入れようとしているのが特徴です。わたしたちは、同じような体験をどこかでしているでしょうか。わたしは、いろんな立場の人が、すでにたとえに出てくるような経験を積んでいると思います。

結婚する人は、似たような経験を積んだかもしれません。宝である配偶者を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、配偶者だけを選んだことでしょう。修道者も、宝であるイエス・キリストだけを選びとって、持ち物をすっかり売り払った人々です。司祭も、イエス・キリストに従うことのすばらしさを理解し、ほかのものは投げ捨てた人々です。

こうして、いろんな立場にある人が、宝を見つけ、地上ではその宝が喜びとなり、この世を去ってからは宝を見つけたことで天の国に招かれることになります。ところで、地上にいる間に隠された宝をみつけ、天の国に招かれる人は、今話したような生き方だけなのでしょうか。

それは違います。もっとたくさんの人が、宝を見つけ、天の国に招かれます。わたしが思い付いたものを3つ紹介しておきましょう。1つは、聖書を読む方法です。ほかの1つは、祈る生活です。ほかの1つの方法は、聖歌を歌って賛美をささげることです。

今、浜串小教区内の3つの教会は、いずれも主日のミサ前に、聖書朗読にいそしんでいます。通常ロザリオが唱えられている時間に、聖書朗読の集いが開かれています。朗読CDを使って、ずっと新約聖書を読み続けています。この、読み続けている新約聖書は、いわば広大な畑です。この畑の中に、宝が隠されているのです。

わたしはこれまでに、わたしにとって大切な宝となったイエスの奇跡物語を2つ見つけました。1つは、生まれつき目が見えず、道端で物乞いをしていたバルティマイのいやしの物語です。ここで詳しい説明はしませんが、大声で、イエスに助けを求める場面が、わたしにとって大切な宝となりました。

もう1つは、ベトザタの池で38年間病気でいた人が、イエスによっていやされる場面です。イエスは38年間病気だった人に、「良くなりたいか」と尋ねました。この一言が、わたしの宝物となりました。

このように、広大な砂漠のように見える新約聖書でも、読み続ければ、聞き続ければ、きっと価値ある宝物を見つけることができます。ですから、今取り組みをしている聖書朗読の集いに、もっとたくさんの人の参加をお願いしたいと思います。

祈りの生活も、宝を見つける畑だと思います。わたしたちの小教区では、朝の祈りとして「朝の祈り二」を唱えていますが、なかなか味のある祈りです。「恵みのうちに生きる」という祈りを例に取ると、「わたしたちがきょう一日、愛のわざに励み、すべてにおいてみ旨を受けとめ、恵みのうちに成長することができるよう導いてください」とあります。わたしはこの部分だけでも、汲みつくせない宝が見つかると思いました。良くできている祈りです。

ミサの中で聖歌を歌い、賛美をささげることも、宝を見つける畑です。最近は、典礼聖歌集だけでなくて、一般の聖歌もありますし、また、短いことばを繰り返して歌う方法もあります。最近歌っているか知りませんが、「父よゆだねます、わたしのすべて。父よゆだねます、あなたの御手に」などは、繰り返しているうちに心の底から自分をゆだねてみようという気持ちになるのではないでしょうか。聖歌という畑は、確実に宝が隠されています。

まとめると、わたしたちの生活は、イエス・キリストを見つけるための広大な畑なのです。結婚によって、かけがえのない人を見つけることも、司祭や修道者になって、自分をおささげすることも、聖書の中に宝を見つけることも、祈りの生活も、ミサの聖歌も、どれもイエス・キリストを見つける畑なのではないでしょうか。

わたしたちがそれぞれの畑の中で、持ち物をすっかり売り払って、大切なものを手に入れる生き方をしていることを今週学びました。わたしたちの生き方はきっとイエス・キリストを知らない人に影響を与えます。ぜひ、イエス・キリストを知らない人にも、畑に宝が隠されていることを、生活を通して証ししましょう。証しのための力を、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
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