主日の福音11/07/17(No.543)
年間第16主日(マタイ13:24-43)
忍耐の道を教えるために、神は御子を遣わされた
先週は「マリア文庫」、「よきおとずれ」と公務が立て続けに入って、まともに説教を準備する時間が取れませんでした。皆さんにお配りした説教集「とって食べなさい」をもう一度読み返して、今週は説教しております。
今日の朗読で関心を引いたのは、イエスがお話しになったたとえ話の中で、「敵が毒麦を蒔く」という場面を置いていることです。イエスが「敵の仕業」について触れたというのは、イエスの中で「敵の仕業」というものは十分にあり得ると考えておられるということではないでしょうか。
たとえばそれは闇の力とか、悪の力と言ってもよいかも知れませんが、そうしたものが力を振るうことがあるということなのでしょう。今日は少し、この「敵の仕業」という切り口から福音の学びを得て、わたしたちの信仰生活に活かしてみたいと思います。
たとえ話の流れからすると、よい働きに混じって敵は自分たちの悪い行いを仕掛けてくるということになります。イエスがこの世においでになっても変わらずに「敵の仕業」は形になって現れます。しかし神が御子イエス・キリストをお遣わしになったということは、たとえ「敵の仕業」が存在するとしても、神は決して敵の業を放っておいたりはしない、必ず焼き払われるということでもあるのです。
そうであれば、わたしたちの時代が抱える矛盾にも、今日のイエスのたとえは一定の答えを与えてくださるのではないでしょうか。イエスがおいでになってからすでに2000年が経ちました。
こんなに長い時間教会共同体は途絶えることなく、信仰は受け継がれてきたのに、悪は絶えません。現代でも「敵の仕業」はそこここで行われています。けれども神は、この時代にあっても決して悪をお許しにならず、お認めにならないのです。悪を許さないのですから、それらは必ず焼き滅ぼされるのです。
この点を理解し、受けとめるのに、わたしたちの信仰が試されていると思います。神さまが試すということではないのですが、信じる力を鍛える必要が出てくると思います。僕たちの言葉「行って抜き集めておきましょうか」をよく考えて、もっと適切な答えを出すように求められているのです。わたしたちは、よくよく注意が必要です。それは、神よりも早く裁きを下したり、神よりも出過ぎたことをして、それでいて自分のとった態度は神に当然喜ばれると思う危険があるからです。
「毒麦のたとえ」で登場する主人は、父である神を写している人物です。主人が取った唯一の方法は、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」ということでした。「忍耐し、最後の日まで様子を見届けなさい」ということです。ですが僕に代表されているわたしたち人間は、どうしても早く手を打ち、結果を見たがるのです。先回りして、神に任せられていることにさえも手を出してしまいがちです。
ここで、主人が取った方法、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」態度をあらためて考えましょう。主人が取った態度は、本当に正しかったのでしょうか。唯一の、適切な方法と言えるのでしょうか。ほかにもっと良い方法、たとえば僕が提案したように、早めに抜き取ることは考えなかったのでしょうか。
たとえの説明と照らし合わせて考えてみましょう。父なる神は一つの決定的な形で、これが唯一の方法であり、神が選ばれた道であることを示されました。それは、御子イエス・キリストをこの世に遣わすということでした。
神は御子イエス・キリストに人間の救いを託されたのですが、イエスが取られた道はまさに、「忍耐し、赦すことで人間を救う」という道でした。十字架での最後の場面がその極みです。十字架は人間を救うために示された最高の忍耐の証・赦しの証でした。
ほかに取るべき方法があったかも知れませんが、一切の方法を脇において、イエスは十字架にかかって、どこまでも忍耐と愛を示してくださったのでした。こうして、父なる神は人間の救いのために、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」道が唯一の方法であると、示されたのです。
「忍耐の道」は、ともすると「弱い者の選ぶ道」「最も愚かで見込みのない手段」と受け取られるかも知れません。ですが、わたしたちがどう説明づけようとしても、父なる神が御子イエス・キリストを通して示された「十字架を通しての救い」のほかは、正しい答えは見つからないのです。
この道は、いったんは御子イエス・キリストが「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と避けようとした道でしたが、最終的には受け入れました。考え抜いた挙げ句に、最後まで忍耐することを選ばれたのですから、わたしたちがこの道を別のものに置きかえることはできないのです。
ここに、わたしたちの信仰が問われています。忍耐し、最後まで見届ける方法は回りくどいように思えるのですが、これがわたしたちの信じるイエスによって示された唯一の道であれば、わたしたちも受け入れよう。この信仰が必要になってきます。
活動が実を結ばないと結果を見守る気持ちになれないものです。最後まで忍耐するよりも、被害を最小に食い止めたいと思うこともあります。人間として思うことはいろいろあるでしょう。ですが、忍耐によって努力を積み上げることが、まずは神が示された道であるし、わたしたちにも必要な心構えなのです。
神は悪をほうってはおかれません。忍耐しておられるのです。神の変わらぬこの態度がわたしたちの限られた心の広さではなかなか理解できません。忍耐して努力し続ける大切さと、悪を最終的には焼き尽くされるのだという固い信頼を保つことができるよう、ミサの中で願いましょう。主はわたしたちに、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)と招いておられます。
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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
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