主日の福音11/07/03(No.541)
年間第14主日(マタイ11:25-30)
軛はイエスが共に担ってくださる

復活節と、その後のいくつかの主の祭日が終わって、年間の主日が巡ってきました。また、今年に限って言えば、今日は7月3日、使徒トマスの祝日で、わたしの霊名の祝日でもあります。後でお祝いしていただけるそうで、ありがたいなぁと思っています。

ちなみに、「聖トマ」と言ったり「聖トマス」と言ったりするのは、どっちが本当かと聞かれたりしますが、ラテン語聖書は「トマ」ギリシャ語聖書は「トマス」と表記しますので、どちらも間違っていません。いちおう、教区には「トマス」と届けています。

3年前からわたしは、霊名のお祝いの少し前に、健康診断を受けるようにしました。社会保険に加入しているので、健康診断を受けるのは当然と言えば当然なのですが、実際には健康状態に気を配らない司祭が多いのです。わたしもそうでした。ですが、父が亡くなってからは健康診断を受ける気になりました。

今年は、去年厳しく注意された数値が目に見えて改善されていまして、診察してくださった先生から「続けて健康維持のために食事と運動に気を配ってください」と言われました。食事を考えてくださるシスターと、ミニバレーに誘ってくださる婦人会の皆さまのおかげだと思います。感謝しております。

さて今週の朗読箇所から、「軛」(くびき)について考えてみたいと思います。「軛」は簡単に言うと、「牛や馬のくびにあてる横木」のことです。この軛を動物に取り付けて、人間は動物を操り田畑を耕します。動物を苦しめたりはしませんが、ちょっと不自由を味わうことになります。

この軛を例にして、イエスはわたしたちを導こうとします。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(11・29)

ここには2つのことが言われています。「わたしは柔和で謙遜な者である。」イエスが柔和で謙遜であると言うとき、それは人柄として柔和謙遜であると考えるよりも、御父の前にひれ伏して教えを請う態度を表します。

ですから、続く「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼び掛けるわけです。もし素質のことなら、たとえば「わたしは運動神経が良いから、わたしに倣って運動神経が良くなりなさい」という招きになり、お手本にできなくなります。そうではなく、イエスが率先して、御父に謙虚に教えを請う姿を学びなさいと言っているのです。

軛が、イエスに倣って御父の前にひれ伏して教えを請うということであれば、この軛は何をもたらすのでしょうか。人間を自在に操り、ある程度の不自由を強いるということでしょうか。そうではありません。御父の御旨にまっすぐに従い、父なる神が望むように生きる真の自由が与えられます。

最後にイエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11・30)と仰いました。「負いやすい」「軽い」とはどういうことでしょう。軛は、いつの場合でも負い難く、重荷なのではないでしょうか。

ここでもう一度、軛を負う姿を考えてみましょう。イエスが求める軛につながれているのは、わたしだけでしょうか。御父に教えを請う謙虚な姿を軛と言うならば、イエスが先に、軛を負ってくださっているのではないでしょうか。

わたしの軛には、わたしだけではなくて、イエスがそばにいてくださる。イエスが共に、軛を担ってくださる。それが分かれば、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言っているのも分かります。御父のお望みのままに生きようと望むのは、わたし一人の努力なのではなく、イエスがそばにいて、一緒に担ってくださっているのです。

今日わたしは、霊名の祝日を迎えて、もう一度「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と招くイエスさまの声に耳を傾けたいと思います。自分に都合のよいことばかりではなく、イエスと一緒に、御父に教えを請う生き方を歩き通すことができるように、ミサの中で願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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