主日の福音11/06/26(No.540)
キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
取って食べ、いのちをいのちとして受ける
大分の叙階式にどうしても未練があって、6時45分からミサを開始しました。知らずに7時においでになった方はお許しください。ここまで協力してもらったのに、船が出るのかどうか、説教書いた時点では保証はありませんで、説教している時間にはきっと決定しているでしょう。
今日はキリストの聖体の祭日です。ミサで祝われる聖体の秘跡について、どうしても話したいことに絞って話を進めます。イエスを信じることができないでいるユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(6・52)このことにこだわって、その先に進むことができないでいます。
わたしはこう考えます。「イエスが、天からおいでになった方で、世を生かす方であれば、きっと何かの方法で、御自分を食べ物として与えてくださるに違いない。」これは、イエスを信じているからたどり着く考えです。イエスを信じることができないユダヤ人たちは、どうしてもこのように考えることができないでいます。ですから先へも進みません。
イエスの言葉を信じる者が、世を生かす食べ物にたどりつきます。最後までイエスを信じ続けた弟子たちには、「どうやって食べさせることができるのか」を知ることができました。最後の晩餐の席で、パンとぶどう酒の形のもとに、イエス・キリストがとどまって、弟子たちをはじめイエスを信じる者すべてに、イエスは食べ物になってくださいました。
パンとぶどう酒のもとにイエスがとどまる聖体、わたしたちの食べ物となってくださった方が、「世を生かすためのわたしの肉」となるためには、もう1つわたしたちからの協力が必要だと思います。それは、イエスの食卓に連なるということです。
イエスの食卓に連なる者に、ミサの中で司祭は次のように呼びかけます。「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い。」もちろん聖体拝領のことを直接には指していると思いますが、神の子羊の食卓は、御言葉の食卓と、聖体の食卓と、両方を忘れてはいけません。御言葉の食卓にも、「世を生かす」力があるのです。
この、「イエスの食卓に連なる努力・工夫」を、わたしたちは続ける必要があります。日曜日(主日)のミサに参加する努力・工夫はもちろんですが、平日のミサに参加する努力・工夫も、イエスの食卓に連なるためにとても大切だと思います。なぜなら、平日のミサに参加する努力・工夫を忘れない人は、主日のミサに参加する努力・工夫を忘れないと思うからです。
食べ物、飲み物は、眺めているだけでは食べ物、飲み物になりません。手に取って食べ、飲むのでなければ、世を生かすことはないのです。イエスを信じることでイエスの食卓までたどり着き、とって食べることで「世を生かすためのわたしの肉」といたしましょう。また、「わたしはこうやって、この世を生きている」と証しする者となりましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
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