主日の福音11/06/12(No.538)
聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)
聖霊が注がれ、神のいのちを思い起こす

雨になりました。聖霊降臨は恵みの雨が降ると聞いたことがあります。雨を必要としている人もいると思います。もちろんすべてではないでしょうが、聖霊の望むままに、雨を通して恵みが注がれると考えたいです。

黙想会を終えて帰ってきました。説教師は、函館トラピスト修道院の高橋重幸神父さまでした。聖書の日本語訳にも関わっている神父さまから、深い学びを分かち合ってもらいました。ただ話はなかなか聞いてすぐわかるものではなかったので、かなり忍耐を要求されました。何度か居眠りし、ノートパソコンでメモを取っていたのですが、何ページもスペースキーで空白を入れている時間もありました。

学識のある人は、話がそれた時の余談も気が利いています。学びの足りないわたしなどは、説教師の余談がむしろ興味深く聞くことができました。いくつかありますが、その中で唸らされた話があります。

多くの人の前で話をする時、次のことをわきまえておきなさいと言われました。集まった会衆のうち、話を聞いているのが半分、話を聞いている人のうち、注意して話を聞いている人がその半分、注意して話を聞いている人のうち、理解できる人がさらにその半分、話を理解できる人のうち、なるほどと同意してくれる人がその半分。

なるほどと言ってくれる人のうち、話を覚えて帰るのはまたその半分。最終的に、ミサが終わって話を覚えて帰る人はミサに参加した人の32分の1だけだそうです。これには司祭一同思い知らされました。高橋神父さまの説教をわたし自身今年の糧にしながら、司祭としての働きに活かしていきたいと思います。

さて、今年の聖霊降臨の学びとして、「いのち」を切り口にして考えてみたいと思います。大きな試練を経験した方々、たとえば大震災を経験した方々は、何もかも失ってしまった中で、「いのち」だけはとりとめた、「いのち」が助かったから、またやり直すことができる。そういう難しい場面に立たされたのだと思います。

ここで「いのち」と言ったのは、体のいのちもありますが、神から与えられた永遠のいのちを考えることがより大切だと思います。体のいのちは、残念ながら無くしてしまった人々もたくさんおられます。それでも、すべての人は、神から与えられた永遠のいのちを失うことはないと思うのです。

福音朗読で、イエスはユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっていた弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」(20・19)と言われました。さらに弟子たちに、御自分の手とわき腹とをお見せになりました。「手とわき腹の傷を見せる」というのは、イエスが、体としては確かに死なれたということです。死ぬことがなければ、復活もないわけです。

けれども、イエスは体は死んでも、神のいのちは一瞬も失うことはありませんでした。この「神のいのち」に、はっきりと目を向けるように、今日イエスは弟子たちに言葉をかけるのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)

「聖霊を受ける」これは聖霊降臨の出来事を思い起こさせます。使徒言行録にあるように、弟子たちには炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました(使2・3)。これは、「いのち」という切り口で考えると、「神のいのち」をはっきりと意識する出来事だったのではないでしょうか。

弟子たちは、聖霊降臨まで宣教活動の時を待っていました。聖霊が注がれると、宣教に打って出たわけですが、その弟子たちの働きは「神のいのちに奉仕すること」だったのです。体のいのちについてはだれでも配慮していましたが、神が与える永遠のいのちに心を配るように、弟子たちは外に向けて声を上げたのでした。

今日の福音朗読では、「罪のゆるし」について奉仕するようにと弟子たちを促します。罪がゆるされていのちを取り戻すのは、体のいのちではなく永遠のいのちです。ここでも、聖霊を受けたなら、神が与える永遠のいのちのために奉仕しなさいと呼びかけているわけです。

わたしたちにも、聖霊降臨は同じことを呼び掛けます。聖霊が注がれ、心の目が開くとき、わたしたちはみずからの神のいのちに心を配っていただろうかと考えが及ぶようになります。神が与える永遠のいのちを滅ぼさなければ、どんな人にも道は開ける。そのことを聖霊は気付かせてくれます。

自分自身が、聖霊に照らされて神のいのちを大切に考えるようになったなら、次は周りの人にも同じ配慮をしてほしい。わたしたちに注がれる聖霊は、次の目標を教えてくれるのです。

神が与える永遠のいのちに、心を向ける。聖霊はあらためてそのことをわたしたちに教えようとします。恵みを受けて、永遠のいのちを養い、いのちを保つならば、どんな場面にあっても次の道は開けます。わたしたちに注がれる聖霊が、最も大切なものを教え導いて、証しへと結び付けてくださるように、引き続きミサの中で祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
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