主日の福音11/06/05(No.537)
主の昇天(マタイ28:16-20)
疑う弟子たちに近寄って力強い言葉をかける

今日は、「主の昇天」の祭日です。土曜日に、太田尾小教区の信徒の方24人が浜串教会を訪問してくれました。太田尾小教区は、この前亡くなった松永正勝神父さまがおられた教会で、わたし自身も初めて主任司祭に任命された小教区です。

24人の巡礼団の方々は、松永神父さまのおられた土井ノ浦教会などを訪ねて、その足跡をたどり、祈るためにやって来たのだと思います。その中で、かつて赴任していたわたしのところにも、表敬訪問してくれたのだろうと想像しています。

太田尾小教区巡礼団の訪問を受けて、わたしは別のことを思い出しました。そう言えば、太田尾小教区ではご昇天の祭日に決まって山登りをして、山の上でミサをして、遠足を楽しんでいたなぁということです。今年、その楽しい思い出を巡礼団が来てくれたことで思い出しました。

では福音朗読に入りましょう。弟子たちはガリラヤで指示されていた山に登り、イエスに会い、ひれ伏しました。ところがそこに、マタイはもう1つのことを書き加えました。「しかし、疑う者もいた。」(28・17)というのです。

この「疑う者もいた」という書き込みは、非常に気になります。というのは、弟子たちにとって、またこの福音書を読み、聞く人々にとって、もっと言うと校正のすべての人々にとって、都合の悪い出来事だからです。復活したイエスと出会っているのに、みながみな心からイエスを信じ切れていないというのですから、場合によってはその事実を伏せておけばよかったはずです。

マタイはなぜ、この「疑う者もいた」ということを書き残したのでしょうか。この点から今週は出発したいと思います。ここで、「疑う」と日本語に訳された言葉は、もとの意味をたどると「2つの方向に歩む。人の中に2つの思いがあり、分裂した状態」を表すのだそうです。

同じ「疑う」場面は、湖で嵐に遭遇した時にも体験しました。弟子たちが舟を漕ぎ悩んでいるときにイエスが湖の上を歩いてこられ、ペトロに「来なさい」と言います。ペトロは湖の上を歩き始めますが、波に気付いて恐ろしくなり、助けを求めました。イエスの「来なさい」という言葉を信じたいのだけれども、現実に振り回されて心が2つに分かれている。この状態を「疑う」と表現しています。

心が2つに分かれ、信じたいけれども信じきれない。こういう状態が「疑う」という意味でしたら、それは、信仰に至るきっかけとなり得ます。信じたいけれども心を邪魔するものがあって、神にまっすぐに心を向けることができない。これは誰にでも起こりうることですし、何か力をいただけば、迷いを断ち切って一心に神に助けを願う人に生まれ変わることができるわけです。

実は今日の出来事に、そのヒントがあります。「疑う者もいた」その弟子たちに、イエスは何をなさったでしょうか。イエスは近寄って来て、言葉をかけました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28・18-20)

わたしはこの場面で、プロ野球の試合を重ねて考えました。ピッチャーが打者に連続して打ち込まれたり、フォアボールを立て続けに出したりするとき、よく監督が飛んで行って、何か一言二言声をかけると、そのピッチャーが立ち直ってピンチを切り抜けるということがあります。

これはまさしく、近寄って来て言葉をかける場面です。監督が何を言うのか知りませんが、技術云々ではなく、きっと「お前に任せたんだから、お前を信じているぞ」そういった力強い一言ではないでしょうか。

イエスも、近寄って来て声をかけ、なかなか信じ切れない弟子たちを力づけるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ともすれば自分の学んだ知識や経験に頼りがちな弟子たちを、イエスに全面的に信頼するように、御言葉が導いていくのです。

しかしながら、弟子たちも人間です。イエスの言葉を聞いて決して右にも左にもそれない人物にすぐに生まれ変わったのかと言うと、そうではないと思います。

それはご昇天をお祝いしているわたしたちも同じことです。イエスの言葉は力強いのですが、わたしたちはそれを聞いてもなお、十分信じきれないという過ちを犯したり御言葉への信頼を忘れたりするわけです。

心が2つに割れることなく、真にイエスを信じて歩めるようになるためには、わたしたちは失敗も犯し、もう神に頼る以外に道はないというところまで追い込まれる必要があるのかもしれません。プロ野球のたとえを話しましたが、追いつめられてからの監督の一言は、何にもまして効果がある、これに似ています。

では最後に、弟子たちはご昇天の時に最後にガリラヤの指示された山でイエスにお会いして御言葉に力を得たのですが、現代のわたしたちはどこに行けば同じような体験を積むことができるのでしょうか。

わたしは、現代におけるイエスが指示された場所は「教会」だと思います。復活して昇天なさるイエスが、近づいて声をかける場所は、教会ではないでしょうか。弟子たちはガリラヤの指示された山ですべての民を弟子にするように、また洗礼を授け、掟を守るように教えることを命じられました。

イエスはわたしたちにも、教会で必要な命令を授けてくださいます。それは、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」という新しい掟を自分自身が生きて、またそれを守るように人々に教えることです。この新しい掟を守るならば、その生き方を見た人が信仰に入り、洗礼を受け、弟子となるでしょう。わたしたちも弟子たちと同じように、イエスの言葉に力づけられた宣教者となるのです。

もちろん、すぐにわたしたちが完成されるわけではありません。失敗もするし、挫折することもあります。それでも、繰り返し現代の指示された山である教会に来ることで、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という御言葉に力づけられ、実を結ぶことができるのです。繰り返し、現代の指示された場所である教会に足を運び、宣教するための土台を固めていただくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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