主日の福音11/05/22(No.535)
復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)
イエスは御父に人々を導く確かな道

今日、聖母行列をしてからの主日のミサでした。わたしは、行列をしながら、自分たちがどこに向かっているのかを考えながら行進していました。岬のマリアから出発して、わたしたちはどこへ向かったのでしょうか。もちろんそれは、教会のほうに向かったのです。

もっと、意味を汲み取って言うと、わたしたちはマリアから出発して、イエスに向かったのです。さらに踏み込んで言うならば、マリアから出発してイエスに向かい、父である神のもとにたどり着く道のりを歩いたのです。

今日の福音朗読で、イエスはわたしたちのこの歩みを見事に言い表しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14・6)

聖母行列を、たんなる行列で終わらせてはもったいないことです。聖母はいつも、御子イエス・キリストを指し示す方です。この聖母月に、熱心に聖母に祈りをささげ、取り次ぎを願って来たのは、イエスに願いをかなえてもらうためです。マリアはわたしたちの祈りを確実に取り次ぐ方としておられるのです。

今日はさらに、岬のマリア像まで700〜800メートル、そこから折り返してきたので約1.5キロ、行列のために歩きました。十分に祈りをささげました。この歩いた道が、イエスを知り、愛する道につながるのです。マリアを通して願ったので、わたしたちは真理といのちをイエスからいただきます。

ここであらためて、かつてマリアが歩いた道について考えてみましょう。マリアはヨセフとともに、人口登録のためにベツレヘムに向かいました。そこでマリアは月が満ちて男の子を産みます。マリアは、旅先でイエスに出会ったのでした。

マリアとヨセフは、幼子を神殿に奉献に行きます。ここでマリアは、幼子がだれも予想できないような運命をたどることをシメオンとアンナ、両預言者によって知らされました。神殿に奉献に行ったことで、自分たちの知らないイエスに出会ったのです。

また、ユダヤ人は過越祭に必ずエルサレムに旅をしていました。その旅の中で両親はイエスを見失い、三日をかけて神殿にいるイエスを見つけます。ここでイエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言いました。父なる神の子であると、はっきり話すイエスに出会います。他にも、カナでの婚礼の場面、イエスの十字架上での場面など、どれもマリアが歩いた先に、イエスがそこにおられたのです。

聖母行列から、今週の福音朗読を振り返ることは良いアイディアだと思います。マリアが、イエスを指し示しているように、イエスは、御父に至る確かな道です。イエスに倣ってこの人生を歩むなら、住む所がたくさんあり、わたしたちを喜んで迎えてくださる御父のもとに、確実にたどり着きます。

この道を一歩一歩確かに歩んで、御父のもとで、イエスと共にいることができます。わたしたちが家にたどりついたときほっとするように、どんなに贅沢な場所でも得られない、どんなに珍しい場所でも得られない、そんな安らぎの場にたどり着く道、それがイエス・キリストなのです。

もうしばらく、聖母月の日々が続きます。この期間に、マリアを通ってイエスにたどり着く知恵を学びましょう。そしてイエスが、わたしたちの御父に出会わせる確かな道であり、イエスの中に真理があり、豊かな命があることに気づくことができるように、このミサの中で続けて祈ることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
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