主日の福音11/04/22(No.529)
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
十字架はすべての人にいのちをもたらす

わたしたちの救いのために、わたしたちを罪から解き放つために、イエスはこの日、死に渡されました。今年の聖金曜日は、息を引き取るときにそばにいた人々に注目して、黙想してみたいと思います。

ヨハネ福音書によれば、十字架上のイエスのそばにいてイエスの最期を見守った人々の中に、「イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(18・)とあります。また、イエスの愛する弟子が、そばにいたとあります。この、母マリアと愛する弟子が十字架のそばにいたことに、注目したいと思います。

イエスは確かに苦しんでお亡くなりになりました。そのイエスのそばに、母と愛する弟子とがいたことには意味があります。母は、子を産む苦しみとその後の喜びを現わす姿です。ですからイエスの十字架上の死は、新たないのちを産む苦しみであると、イエスのそばにいるマリアを通して現わそうとしているのです。

また、愛する弟子が母マリアのそばにいました。イエスが母マリアに、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(19・26)と示した通り、この愛する弟子はイエスが十字架を通して生み出した新たないのち、苦しみの後に生まれた喜びです。

こうしてイエスは、十字架上の出来事が、息絶えてすべてが消える滅びの出来事ではなく、新たないのちをもたらす、豊かさを秘めた出来事であると身をもって示したのです。
かつて見たことがあるでしょうか。死ぬことが、いのちをもたらすということを。いのちをもたらす死など、だれも説明できませんでした。それをイエスは、十字架のもとにたたずむ人々の目の前で、証明したのです。

わたしたちはこの出来事を前にして、何が必要でしょうか。それはただ、イエスがもたらすいのちを受け取る。その準備だけだと思います。イエスが十字架の上で死に、新たないのちをもたらすことを、感謝してそのまま受け取ることです。

この説教の後に、十字架の礼拝をいたします。十字架を礼拝するのは、イエスが十字架の上で死に渡されて、わたしたちにいのちをもたらしてくださったからです。ぜひ、この十字架の礼拝の時に、「わたしたちに救いのいのちを与えてくださるイエスに、感謝します。」その気持ちで十字架の前に立ちましょう。

礼拝は二人一組で行います。イエスが苦しみと死を通して与えてくださるいのちを全身で受け止めるために、きちんと動きを止めて礼拝いたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
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