主日の福音11/04/21(No.528)
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
弟子をすべて、愛し抜かれた
今日は聖木曜日、主の晩餐を祝う日です。イエスは2つの奉仕をなさいます。食事を用意してくださることと、弟子たちの足を洗うことです。どちらも、今日の朗読の冒頭に書かれている弟子たちへの愛が、根底にあります。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)
イエスによる食事の用意は、御自分を与え尽くす愛です。食事は、パンとぶどう酒のごくありふれた食べ物を通して、イエスの御体と御血を、弟子たちに与えます。イエスはこれまでに数々の教えを与えてくださいましたが、この場面ではイエスご自身を、すべて余すところなくお与えになるのです。
そして、一人一人弟子たちの足を洗います。足を洗う仕事は、奴隷の仕事とされていましたが、その奴隷の仕事の中でも、最も低い身分の奴隷にあてがわれていた仕事なのだそうです。自分がかわいければ、この仕事を最も低い奴隷に代わって引き受けることは決してできません。イエスは、弟子たちを深く愛して、最も低い身分に与えられる務めを引き受けたのでした。
今日、わたしもこの出来事に倣って洗足式をいたしますが、あらためて、洗足式の心構えを考えさせられました。イエスが、最下層の奴隷の身分にまで降りていった。そこに自分も留まる。そういう覚悟を新たにしています。
イエスの、食事を通して示された「与え尽くす愛」、弟子たちの足を洗うことで示された「愛し抜く姿」を、イエスを信じるわたしたちも受け取りましょう。わたしたちの身の回りでも、「与え尽くす愛」「愛し抜く姿」を求められている場面があるのではないでしょうか。
今日までは相手をゆるすけれども、明日になったらもうゆるすことはできない。今日までは愛情を示すつもりがあるけれども、それももうおしまい、あすからは決して愛すつもりはない。そんな困難な場面にも、イエスは御自分の模範を示そうとします。「わたしに倣いなさい」と。
最大限努力して、世話をしてきたけれども、疲れ果ててその場を投げ出したい、その場から逃げ出したい。そんなあなたを、イエスは呼び寄せて、聖体の秘跡で養い、あなたの足を洗って困難な場面から救い出してくださいます。
ある人は、「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)と言うかもしれません。「教会に行っても前に座れるような人間ではないのです」と、考えている人がいるかもしれません。
けれども、イエスは今日の夕食の席で、だれも裁いたりはしないのです。全員を愛し抜こうとしておられるのです。ですから足を洗わないでくださいと拒んでいるあなたも、イエスは愛し抜こうとしておられるのです。
イエスの招きに、すべてをゆだねましょう。イエスが愛し抜いた人は、変えられていきます。イエスの愛によって変えてもらい、この世の罪な生き方に死んで、命に満ちた生き方に生まれ変わることができるように、主に願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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