主日の福音11/04/10(No.526)
四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)
人の死の場面でも、神は寄り添ってくださる

四旬節もいよいよ大詰め、来週は受難の主日を迎え、ご復活へと進んでいきます。福音朗読は、ラザロを生き返らせる場面でした。これはいわゆる「奇跡」の物語なのですが、ヨハネ福音書が取り上げている奇跡は6つあります。覚えておくとためになりますので、取り上げている順に並べてみたいと思います。

まず、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡です。次いで、役人の息子をいやす奇跡、ベトザタの池で病人をいやす奇跡と続き、五千人に食べ物を与える奇跡があって、先週朗読した生まれつき目の不自由な人をいやす奇跡と、今週のラザロを生き返らせる奇跡です。

人間の苦しみに無関心でいられない神は、さまざまな奇跡を通して人間に深くかかわり、神の栄光を現わします。ヨハネ福音書が取り上げた6つの奇跡は、神が人間により深くかかわる様子が順を追って描かれているように思います。

カナの婚礼で水をぶどう酒に変える場面では、マリアに「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と声をかけた時、「わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)と答えて、かかわり方はそれほど深くないように思われます。

役人の息子をいやす時にも、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4・48)と仰るし、直接出向くことはなくてイエスの言葉を信じて帰ると、奇跡が起こって役人の息子は元気になりました。

ベトザタの池で病人をいやす時には、イエスはこの病人が三十八年間という長い間病気であることを知って、一人の人生全体にかかわろうとしています。さらに、五千人に食べ物を与える奇跡は、数え切れないほど多くの人の苦しみを放っておけない神の姿が現れました。

生まれつき目の不自由な人のいやしの場面では、いやされる人は生まれてくるときからの障害のため、本人が罪を犯したからとか、両親が罪を犯したからとか、いわれのない非難を浴びて、苦しみを抱えて生きて来たのでした。この物語では、障害に加え、いわれのない罪まで背負わされた深い悲しみに、神が寄り添う姿を現しています。

そして、今週のラザロの生き返りの場面です。周囲の人々はこんなことを言っていました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11・37)この言葉は、たとえイエスであっても、死という絶望を味わうような人間の場面では、寄り添うことはできないだろうという考えです。

イエスは、人間の絶望的な場面こそ、神が深くかかわることを証明します。大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい。」(11・43)こうして、ヨハネ福音書が書き記した6つの奇跡の場面は、限られた中でのかかわりから始まって、絶望的な場面にも、神が深くかかわるということを順を追って説明しているのです。

ヨハネ福音書が6つの奇跡で示そうとした人の苦しみに無関心でいられない神の姿は、だれのためのものでしょうか。直接には、ヨハネが福音書を書いた当時の共同体のためだったでしょう。けれども、当時の共同体のためだけであれば、書物に書き残す必要はありません。

書物に書き残したということは、後の時代の人々に、イエスが人の苦しみに無関心でいられない神を生き生きと示しているのだと伝えたかったのではないでしょうか。後の時代の人々、すなわち、ヨハネ福音書を読むすべての人に、神はどんなお方であるかを示そうとするイエスを告げるためにも、書き残しているということです。

当然、ヨハネ福音書を読むすべての人の中には、わたしたちも含まれています。四旬節の大詰めを迎える今日、イエスはラザロの生き返りを通して、わたしたちにも「絶望的な状況にあっても、神はあなたのそばにいて寄り添ってくださる」と語りかけているのです。

イエスはラザロを生き返らせた後、ベタニヤで香油を注がれ、エルサレムで人々の歓迎を受けます。エルサレムでは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。」(12・17)とありますから、イエスをたたえる群衆の中には、ラザロの生き返りを目の当たりにした人々も加わっていたのでしょう。

わたしたちも、受難とご死去、ご復活につながっていくエルサレムに、イエスと共に向かいましょう。今週ラザロの生き返りから「絶望的な状況にあっても、神は寄り添ってくださる」ことを学びました。今週の学びは、わたしたちにも人々に証しする機会を与えてくれます。わたしにも、証しを立てようとしているあの人にも、神は寄り添ってくださる。そのことを、多くの人に知らせましょう。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
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