主日の福音11/04/03(No.525)
四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)
だれもがイエスに種蒔かれ、呼び戻されている
3月31日と4月1日で、上五島地区の神父さまがずらっと入れ替わりました。あと1人、地区長となる青方の主任神父さまが8日に赴任してきますが、思いっきり若返りました。11人の司祭のうち、30歳代と40歳代が8人になりました。
あと3人は、先輩とはいえ70歳にはとても見えないダンディーな神父さまと50代の神父さま2人ですから、最強のメンバー構成と言ってもよいかもしれません。大司教さまも若手をたくさん上五島に配置してくださって、気前がいいですね。
今回おいでになった神父さま全員が、上五島に赴任することを手放しで喜んでいるか、わたしは分かりませんが、上五島の神父さまの団結力や絆を知ったときに、あー、この地区に赴任してよかったなぁときっと思ってくれると思います。
新しく入ってこられた神父さま方が、上五島に魅力を感じてもらえるように、転勤のなかった浜串・鯛ノ浦・土井ノ浦・真手ノ浦の4人の司祭は、上五島地区の魅力を示す必要があるでしょう。
さて、今週の福音朗読は、生まれつき目の不自由な人がいやされる場面が選ばれています。この人が身に受けている障害は、イエスの言葉の通り、「神の業がこの人に現れるため」(9・3)でした。イエスは、人々が神の働きを知り、神をたたえるためにこの人を使っておられるということになります。神は、いろんな場面で人を使います。
まず、朗読箇所を大きく見渡すために、ヨハネが組み込んだ仕掛けを読みとりましょう。この物語に、ヨハネは3つの場面を組み込んでいます。第1の場面は、生まれつき目の不自由な人とイエスが出会う場面です。イエスは奇跡をおこなって、目が見えるようにしてくださいました。
第2の場面は、ファリサイ派の人々が、いやされた人と、ここでは省略されていますが、その両親を問い詰める場面です。当時の宗教指導者であったファリサイ派の人々は、奇跡によって心の目も開かれ、イエスを信じ始めている人を完全に否定しようとします。そしていやされたその人は、町の外に追い出されてしまいます。
第3の場面は、再びイエスと出会う場面です。「あなたは人の子を信じるか」(9・35)とイエスが語りかけると、いやされた人はその場でイエスを救い主と信じ、イエスにひざまずきました。
この3つの場面は、ヨハネが物語に組み込んだ「仕掛け」として働いています。かいつまんで話すと、「ある人にイエスとの出会いがあり、イエスを信じ始めたその人は迫害を受け、町の外に追い出されるが、イエスと再び出会い、イエスへの信仰を固めてもらう」というものです。
これがなぜ「仕掛け」なのかと言うと、この物語の登場人物、「生まれつき目の不自由な人」だけが、イエスとこのような出会いを果たすのではなく、イエスを信じるすべての人が、同じ道を通る。そういうことを考えさせるために、物語の中に仕込まれているからです。
つまり、「ある人にイエスとの出会いがあり、イエスを信じ始めたその人は迫害を受け、町の外に追い出されるが、イエスと再び出会い、イエスへの信仰を固めてもらう」この一連の流れは、わたしたちにも起こりうる物語だということです。神は、このわたしの人生の中にも、今週の福音朗読の登場人物と同じ「仕掛け」を、組み込んでおられるのではないでしょうか。
たとえば、限られた地域では次のようなことがあるかもしれません。教会活動に熱心だった人が、ある時から教会に寄り付かなくなって、何年も姿を見せなくなるというようなことです。
教会に寄り付かなくなった原因はいろいろでしょうが、特に主任司祭と折り合いが悪くなって、教会に近づかなくなるということはよくあるのだと思います。本当に、この点では司祭は反省をしなければならないはずです。わたしも含め、信徒の方への応対がまずかったために、救えるはずの人を救えなかったり、信徒のやる気を失わせたりするのです。
恐らく今日が上五島での最初の説教をしている神父さまもいるでしょう。お互い、過ちを犯す可能性があること、それが、信徒に対して躓きになってしまったときに、信徒はもう教会を信頼できなくなって離れていってしまうことを、肝に銘じたいと思います。
何らかの理由で歩んできた信仰が試練に遭い、教会の外に出てしまい、自分で戻ることができないくらい教会との距離を感じてしまったとしましょう。こんな時、まずは司祭がしっかり手を打たなければなりませんが、司祭が、問題の原因であれば、教会の信徒も間に入ってあげるのは難しいかもしれません。
そうなったとき、その信徒はどうなるのでしょうか。イエスは、こんな厳しい場面に立たされた信徒を、探し出してくださいます。信仰の歩みを1歩ずつ歩み始めていたのに、じゃまもの扱いされたり、迷惑がられたり、熱心さがかえって妬まれたりして、教会に居場所がなくなって遠ざかってしまう。
そんな人を、イエスはもう一度探し出して、「あなたは人の子を信じるか」(9・35)と言われるのです。イエスはあなたがどこにいても、必ず探し出して、もう一度教会の家族につなぎとめてくださいます。
すべての人が、イエスによって信仰を種蒔かれたのだから、迫害や、試練や、信仰にむなしさを感じて一時期離れていても、最初に種蒔いてくださったイエスが、もう一度探し出して連れ帰ってくださるのです。
そうして教会家族に呼び戻されたら、恐れずに信仰を表してほしいと思います。しばらくの試練を乗り越えたあなたは、イエスに呼び戻された人なのですから、もはや何も恐れる必要はありません。生まれつきの障害を乗り越えた今日の登場人物のように、日々言葉と行いで「主よ、信じます」と信仰を証ししていきましょう。そのための力と恵みを、このミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
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