主日の福音11/03/20(No.523)
四旬節第2主日(マタイ17:1-9)
今は、光り輝く姿の意味を熟考する

ガックリ疲れています。黙想会を4日連続でこなしましたが、ずっとずっと話し続けるとやはり疲れます。来年は、ぜひ説教師の神父さまをお呼びして、黙想指導をしてもらおうと思います。

今日の福音朗読は、考えるヒントがあります。それは、「最初の言葉」です。皆さんが手元に持っている「聖書と典礼」では、ミサの朗読箇所として使うために、新約聖書に書かれているはずの「最初の言葉」を省略して、「その時」という言葉に置き換えられてしまっています。これでは「最初の言葉」が何なのかわかりません。

今手元に新約聖書を用意していますが、この新約聖書の今週の朗読箇所に当たる部分をそのまま読むと、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17・1)となっています。つまり、わたしが言う「最初の言葉」というのは、「六日の後」という言葉なのです。

「『六日の後』という言葉が一体どうしたのだ」と思うかもしれません。これは、六日前に何かがあったのだということ、そして、六日前にあったことと重ね合わせて、今日のことを考えなさいという合図です。そこでわたしたちもていねいに、六日前に起こったことからさかのぼって考えてみることにしましょう。

六日前に起こったこと、それは2つの出来事です。1つは、ペトロがイエスへの信仰を言い表すという出来事、もう1つは、イエスが、弟子たちにご自分の死と復活、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっているということを打ち明ける出来事でした。

「六日の後」で考えるべきことがもう1つありました。それは、「六日前の出来事と重ね合わせて、今日の出来事はどういう意味があるのか」ということです。そのために、六日前の出来事をよく考える必要があります。

ペトロは、立派に信仰を言い表しました。イエスさまからも立派な答えであると認めてもらいました。ただ、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16・17)と言っておられるのに、ペトロは言い表した信仰が自力で言い表したものだと思っていたかもしれません。

その証拠に、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えたにもかかわらず、イエスがご自分の死と復活を予告すると、言い表した信仰に自信が持てず、動揺してイエスをわきへお連れしていさめたのでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)

こういう出来事があって、今日の「イエスの姿が変わる」という場面につながっていくのです。イエスは、立派に信仰を言い表したペトロでさえ、自分の信仰が揺らいでしまったのを見て、復活につながる姿を弟子たちに示して、彼らを勇気づけようとされたのではないでしょうか。

復活につながるような、輝く姿は、弟子たちに大きな希望を持たせたでしょう。この方は、やはり「メシア、生ける神の子」なのだ、そういう実感を持ったことでしょう。そこへ、光り輝く雲が彼らを覆い、声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)

「イエスに聞け」と声は命じました。たとえペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をしたとしても、それをあたかも自分の力で言うことができたと思い違いをしないために、「イエスに聞く」必要があるのです。わたしたちがいちばん苦手な、「よく聞く」ことが、この場面で必要なのです。

本心は、有頂天になって人々に言いふらしたいところです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(17・4)と言っているように、人々にその輝く姿を見せびらかしたいところです。ですが、弟子たちに求められるのは「イエスに聞く」ということでした。

わたしたちは黙想会で、「声」として生活の中で証しすることを考えてみましょうという学びを得ました。わたしたちが「声」になるためには、やはり声の持ち主にどんな声であってほしいか、何を語ってほしいか、「聞く」必要があるのではないでしょうか。

イエスは、この物語の中でわたしたちにどういう態度を取ってほしいか、語っています。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(17・9)これから復活のその時まで、わたしたちには聞くことに専念してほしいのでしょう。しっかり聞いて、すべてを噛みくだいて、復活の喜びが来たら、わたしたちにも語ることを期待しているに違いありません。

イエスの光輝く姿、復活の姿が何なのか、わたしたちもこれからじっくり考えましょう。ご復活の喜びの時に、答えが見つかったなら、その時は大胆に証しをしましょう。わたしたちが熟考して見つかった答えは、復活のその時からきっと証しの力になるはずです。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
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