主日の福音11/03/13(No.522)
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)
イエスに従うときわたしの物語が始まる

四旬節を迎えました。イエスの死と復活を準備するための大切な日々です。有意義に過ごしたいと思います。

一つ、豆知識を提供したいと思います。知らないでいるのと、知っているのとではやはり明らかな違いが出てきますので、ぜひ知っておいてほしいのです。

「四旬節」という言葉は、「40日の期間」という意味です。灰の水曜日から、御復活の前日まで、確かに40日なのか、その豆知識です。四旬節は第5主日までと受難の主日(枝の主日)の6週、それに灰の水曜日から「水・木・金・土」(指を折って数える)の4日間あります。

すると、6週と4日間で、単純に計算すると7×6=42、それに4日加えて46日ということになります。では四旬節は、だいたい40日あるからそういう呼び方になったのでしょうか。

そうではありません。ここに、四旬節の独特の数え方があります。四旬節は、日曜日を数えないのです。日曜日は、いつでも「主の日」「復活を祝う日」として、日数から除外されるのです。すると、1週間をまるまる7日間で数えるのではなく6日間で数えることになりますから、6×6=36、それに灰の水曜日からの4日間を加えて、ぴったり40日間ということになります。「四旬節の40日とは、どう数えて40日か」という豆知識として、記憶しておいてください。

では福音朗読に入りましょう。イエスが、荒れ野で誘惑を受ける場面が選ばれています。この、荒れ野での誘惑の物語ですが、イエスさまがどんな誘惑を受けて、どのようにそれを退けたのか、そのことだけを学ぶために物語が選ばれているのでしょうか。わたしはそうは思いません。イエスの歩みを通して、受難と死と復活に至る歩みを、わたしたちにも身近なものとする。そういうことも、狙いとしてあるのではないでしょうか。

つまり、イエスが歩まれた道は、わたしたちの生活の中で、自分たちが歩んでいく道でもあるということです。たとえばそれは、イエスさまの誘惑を退ける姿から、わたしたちが生活の中で起こる誘惑を退けるヒントを見つけて、「わたしたちの四旬節物語」とすることも、狙いとしてあるのだと思っています。

ですから今年の四旬節と復活節は、救いを完成させるイエスの物語としてだけではなく、「わたしたちの物語」となるような工夫を、説教の中に盛り込んでみたいのです。イエスが、救いを完成させてくださったというだけではなく、イエスによって、確かにわたしは救われた、イエスによって確かにわたしの生活はすばらしいものに変えられた。そういう体験を、四旬節から復活節の間に積み上げることができたらと思っています。

では、福音の学びに入りましょう。3つの誘惑が描かれています。それぞれ、パンの誘惑、神を試みる誘惑、悪魔を礼拝する誘惑としておきます。パンの誘惑では、「パンを食べれば、あなたは生きていけるじゃないか」と誘惑しているのですが、イエスは、神の言葉を食べなければ、本当に生きていくことはできないと言って退けます。

ここで、わたしにとっての誘惑を退ける場面を考える必要があります。悪魔はわたしにこう言うのです。「祈りをしなくても、そして教会に行って罪のゆるしを受けたり、ミサの中で神の言葉に触れたり聖体を拝領したりしなくても、あなたは生きていけるじゃないか」と誘っているのです。

あなたはこれに、どう答えるのでしょうか。神との関わり、教会との関わりを1日食べなかったとしても、それは影響ないかもしれません。ですが、半年1年、あるいは5年10年15年食べずにいたら、神の与える恵みが長く補給されていない状態で、本当に生きていると言えるのでしょうか、ということです。

イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4・4)と仰います。霊魂に語りかける、神の一つ一つの言葉で、わたしたちは生きるのです。いろんな時に心に響く声が、わたしたちを生かしてくださっているのです。

次に悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせてこう言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(4・6)これも、わたしにとっての誘惑を退ける場面を考えることにしましょう。ある人は、祈りをする意味が分からないかもしれません。ミサに行く意味が、全く分からないかもしれません。悪魔はそこで、こう言うでしょう。「いっそのことこの信仰生活から飛び降りて、縁を切ってはどうか。」

わたしはこれにどう答えるのでしょうか。信仰生活から飛び降りても、怪我一つ負わなくて済むかもしれません。ですが、飛んだ場所に、自分で戻ることはほとんど不可能に近くなります。

イエスはこう答えています。「あなたの神である主を試してはならない。」(4・7)祈りの効果が感じられない日、ミサの恵みが感じられない日があるとしても、誠実に続けていくことは、いつか、誘惑を跳ね返す力になり、イエスの物語から「わたしの物語」を作り上げるのです。

最後の誘惑、悪魔を礼拝する誘惑は、イエスを、父なる神以外の何かにひれ伏すように仕向ける働きかけです。この場面を、わたしたちに当てはめると、どうしてもやめられない良くない習慣が、わたしたちにないでしょうか。

楽しみのためにお金を使うのも、生活を困らせるほどお金を使い込んでいるなら、やめられなくなっている証拠です。家庭で暴力をふるうことも問題になっていますが、やめられないという人も中にはいます。お金や、暴力、あるいは権力から離れられない状態は、わたしたちが信じる神以外のものを礼拝しているのと変わりません。

自分の言うことを聞かせようとお金や暴力や権力を振り回す人に、イエスは「退け、サタン。」(4・10)と喝を入れます。そこで目が覚めて我に返るなら、その時から、「わたしの回心物語」が始まるのです。

今日、イエスが体験した誘惑の場面を自分自身に当てはめ、「わたしの物語」を始めましょう。四旬節の福音朗読の中に「わたしの物語」を見つけることができるなら、わたしたちはイエスと共に、救いを完成させるエルサレムへの旅を続けることができます。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
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