主日の福音11/02/27(No.520)
年間第8主日(マタイ6:24-34)
病気の時も健康の時も「思い悩むな」

こちらに赴任してから、月に2回病人訪問に回っています。行った先の教会でまちまちですが、毎週お見舞いに行く習慣のある教会もあれば、月に一回お見舞いに行く教会もあります。そしてお見舞いして、病人の聖体拝領をします。

皆さんのほとんどが、病人の聖体拝領を受けたことがないでしょうから、少し説明しておきます。病人の聖体拝領は、ミサを、ぐっと短くしたような形になっています。最初に招きがあり、回心の祈り「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します・・・」と唱え、聖書を朗読します。聖書朗読の後、ご聖体の容器を開いて、一緒に主の祈りを唱えます。

そして聖体拝領するときには、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたを置いて誰のところに行きましょう。」という受け答えをして聖体を拝領します。最後は拝領祈願みたいな祈りを唱えて、祝福の祈りを唱えて終わります。ほぼ、ミサの流れに沿っています。

この中で、聖書朗読の部分がありますが、儀式書には5通りの朗読箇所が用意されていまして、実はそのいちばん最初に、今週の福音朗読箇所が選ばれているのです。もちろん、いちばん最初に載せているからと言って、司祭がほとんどこの「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。・・・」(6・26以下)を選んでいるとは限りませんが、わたしも時々この個所を読みます。

ここから何が見えてくるかというと、病人訪問を受ける人たちにとって、今週の福音朗読箇所はとてもよくわかる箇所、自分のこととして身近に感じる箇所になっているということです。病気で、心もからだも弱っているときに、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」という言葉は、神さまが病気の自分にも目を注いてくださっていることをよく感じさせてくださると思います。

または、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(6・30)という言葉も、命の危険を感じている人にとって、力強い言葉ではないでしょうか。

今週の朗読箇所でイエスがいちばん言いたいのは、「思い悩むな」ということです。そして、この朗読を生活でいちばん身近に聞く人は病人訪問を受けている人と言ってよいでしょう。すると、病気で、心もからだも弱っているときにいちばんイエスが言いたいことは、「思い悩むな」ということになります。

実際には、病院に入院している人がいちばん思い悩むことの多い人のはずです。わたしが見舞った人の中には、家族のある人がたくさんいます。配偶者であるとか、子供たちであるとか、きっと家で待っている人のことが、心配でたまらないはずです。

それでも、イエスは「思い悩むな」と呼びかけ、イエスに深い信頼を寄せることを教えようとするのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(6・27)とも言っています。病院に入院している人にとっては、「思い悩んだからといって、退院をわずかでも早めることができようか」ということかもしれません。

入院している人、自宅で病気療養中の人は、いつか退院し、健康を取り戻す日が来るでしょう。入院中の不自由な思いに比べれば、療養中の不自由さを思えば、解放された喜びはひとしおだと思います。

そんなとき、もしかしたら入院中のことを思い出すかもしれません。辛かった時のことを振り返るかもしれません。でもイエスは、病気の時、つらさを味わっているときから、変わらない態度でわたしたちに呼びかけています。それは、「思い悩むな」ということです。

ですから、あなたが入院中または病気で自宅にいる間に「思い悩むな」というイエスの言葉を深く学んだのでしたら、退院後、病気からの回復後も変わらずイエスの「思い悩むな」という言葉に忠実であるべきでしょう。

イエスは変わらない態度でわたしたちに接してくださいます。わたしたちは、イエスに、変わらない態度を保つことができるでしょうか。思い悩むに違いない、そういう時に「思い悩むな」と呼びかけるイエスを、今のわたしは信頼できるだろうか。あらためて自分に問いかけてみましょう。

なかには、病気の時はイエスの言葉に信頼を寄せようと必死になっていたのに、健康を取り戻すとその時の熱意を忘れてしまうという人もいます。そうではなく、「わたしは、病気の時も健康の時も、変わらずイエスに信頼します」と答えることができるよう、力を願いましょう。
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