主日の福音11/02/13(No.518)
第主日(マタイ5:17-3)
神の望みに叶うように、この1つを心に

今週の福音朗読は、律法学者やファリサイ派の人々に、ご自分の考えをはっきりと示し、宗教指導者たちの陥っている過ちを真っ向から反論しています。イエスの考えの土台になっているのは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5・17)というものです。

まずは、「廃止する」という言葉を、できるだけもとの言葉に近い形で考えることから始めましょう。ここで使われている「廃止する」は、もともとは「ばらばらにする」を意味しているそうです。ですから、律法や預言者(これは旧約聖書全体を表します)が本来持っていた精神を忘れ去り、宗教指導者たちはそれをばらばらにしてしまいました。

そこへイエスがおいでになって、「律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と仰ったのです。律法本来が持っていた精神を現わすように、律法に新たないのちを吹き込もうとされたのです。

では律法本来の精神とは、どのようなものでしょうか。律法はもともと、神への愛と隣人への愛を表す手段でしたが、人間に都合のよいようにさまざまな解釈が加えられ、本来の姿を失っていました。

例として、マルコ福音書の7章9節から13節を引用してみます。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。

それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

宗教指導者たちは人間の都合に合わせたたくさんの解釈をはさんで、神の掟を神の掟の価値から引き下げていました。ですからイエスの反論は相当に厳しかったのです。イエスが完成させようとしたのは、人間の都合でばらばらにされてしまった律法を、神への愛と隣人への愛を表すというただ1つの方向に秩序付けることでした。

ただ1つの方向に秩序付ける。この考えで今週の福音朗読を読み返してみましょう。イエスは「これまではこのように命じられていた。しかし、わたしは言っておく。」と反論して、事細かに説明しています。さらに複雑になるではないかと思っておられるかもしれませんが、よく読み返すとイエスの反論がなるほどと理解できるようになります。

例えば殺すなという掟については、凶器を使った殺人だけではなくて、人のいのちを、神から引き離してしまう行為はすべて神に反するのだということを明らかにします。兄弟に腹を立てる、「ばか」と言う、これらは隣人をおとしめるものですから、すべて責任を問われるのです。

姦淫するなという掟については、神が与えてくださった結婚の尊さを軽視し、破壊する行為は、思い・望みを持つこともすでに神の望みに反するということです。肉体的な行為だけに限られるというような人間の解釈は、神が用意した掟の崇高な価値を引きずり下ろすことになるのです。

他にもイエスは具体的に掟のあるべき姿を説明されますが、大切なのは、人を神への愛と隣人への愛に向かわせるはずだった掟を、本来の姿に立ち返らせようとしたということです。

そしてすべてを本来の姿に立ち返らせようとしたイエスの思いは十字架上で完成されました。わたしたちが、生活のすべてを神の望みに合わせるには、わたしたちの力では全く足りませんでした。そこで、イエスが十字架にはりつけになって、わたしたちを神の愛に結び合わせようとしたのです。

「すべてを神の望みに合わせようと努力するのは不自由で窮屈だ」と思う人もいるかもしれません。けれどもイエスははりつけにされた十字架上で、「成し遂げられた」と仰ったのです。人間を、神の愛に結びつける。その救いのわざが、十字架によって完成されたと言っているのです。

はりつけにされた姿は、まったくもって不自由な姿です。けれども、イエスが、御父への愛のためにはりつけにされていることを考えてみる必要があります。御父への愛のためにはりつけにされているイエスは、本当は完全な自由を手に入れていたのではないでしょうか。神の望みに、完全に結びあわされた生活を人が志すことは、本当の自由を手に入れる道だと思うのです。

今週の朗読の最後、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(5・37)というイエスの言葉があります。神が掟に込めた思いを、人間の都合であれこれ解釈するのではなく、「生活全体を、神さまが喜ぶ方向に向ける」この1点にわたしたちは心を砕く必要があります。ただ1つの原則で生活する。この決意を新たに、今週も過ごしていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
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