主日の福音11/02/06(No.517)
年間第5主日(マタイ5:13-16)
神が「地の塩」「世の光」を使って世界を変える
今日、上五島地区で「信徒の集い」が開催され、浜串小教区も練習の成果を披露しに行きます。昨日の朝ミサでお知らせしていたんですが、大人の方で信徒の集いを見に行きたい方は11時半に車を出してくれるそうですから、どうぞ見に行って、発表する子供たちを応援してほしいと思います。ちなみにわたしも、ペトロに扮装して舞台に上がることになっています。
さて今週の福音朗読も、とてもよく知られているお話です。「あなたがたは地の塩である。」(5・13)「あなたがたは世の光である。」(5・14)説教の材料をいろいろ集めていたら、今までとは違った発見がありました。皆さんと分かち合いたいと思います。
今週の福音朗読を考えるために、まず身近な例から考えることにしましょう。皆さんの家庭には、蛍光灯や白熱球など、家の中を照らすものがあちこちにあると思います。わたしたちが知っている照明器具は、必ず電気をもとにして明るく照らすものばかりです。
これは今週の福音朗読を考えるのに大事な例題になります。蛍光灯も、白熱球も、それ自体は光を出さず、電気をもとにして光をつくります。ですから、蛍光灯の棒を持ってまわっているからと言って、あるいは白熱球を持ち歩いているからと言って、夜道を明るく照らして歩くことはできないのです。
イエスは弟子たちに、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と仰いました。わたしはこのイエスの言葉も、先ほどたとえに出した「蛍光灯」「白熱球」と同じようなとらえ方をしたほうがよいですよと、強く勧めたいのです。
「地の塩」「世の光」と呼ばれた弟子たちは、自分自身のよい行いだけで、塩の役割、光の役割を果たすことができるとは思いませんでした。弟子たちがイエスに深く結び付いていることで、またイエスによって注がれる聖霊に満たされることで、本当の意味で弟子たちを「地の塩」「世の光」にしてくれる。彼らはそのように理解していました。
初めに例として引いた蛍光灯や白熱球も、それだけでは周りを照らすことはありません。自分を光らせる場所に設置して初めて、蛍光灯も白熱球もその役割を果たすわけです。同じように弟子たちも、自分たちがイエスに深く結び付いているときに初めて、「地の塩」「世の光」として働くことができるのです。
そこで、わたしたちにもイエスの呼びかけを当てはめてみましょう。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」だから、その良さを発揮して、世に対して証しとなりなさいと、イエスは期待しています。
けれども振り返って考えると、自分はとても「地の塩」「世の光」とは言えないと感じてしまうかもしれません。自分自身の良い行いだけでは、とてもこの社会を福音の教えで味付けするとか、社会を福音の光で照らすのだと、そこまでの勇気は湧いてこないでしょう。
ここで思い出してほしいのは、弟子たちも同じことを感じた上で、自分たちが「地の塩」「世の光」となれるのは、イエスに深く結び付いているからだと理解していた点です。ですからわたしたちも、イエスに深く結び付いているならば、「地の塩」「世の光」となれるということです。
では、どのようにして生活の中でイエスと深く結び付いていくことができるのでしょうか。弟子たちは、イエスと一緒に寝起きし、イエスの言葉、わざ、すべてを目の前で見てイエスとの深い絆を保っていました。わたしたちはどのようにして、イエスとの絆を深めるのでしょうか。
3つ、考えてみましょう。「祈り・聖書の学び・隣人愛」です。礼拝も含めて、祈りを生活に取り入れる人は、確実にイエスの照らし・導きを受けますから、イエスとの絆を深める人です。主日のミサに参加し、恥ずかしがらず誰にも遠慮することなく祈るなら、それは社会にイエスの福音を染み込ませ、消えることのない光として輝くことになります。
聖書の学び。聖書に日ごろから親しむ人は、神の言葉に常に耳を傾ける人ですから、イエスとの絆を深める人です。神の言葉をたえず受け入れるなら、それはいつか、溢れて人々に注がれるでしょう。人は、心の中にあるものを語るからです。長崎教区で取り組んでいる「聖書愛読マラソン」も、神の言葉に耳を傾けるよいきっかけです。
隣人愛を常に心がける人は、イエスとの絆を深める人です。わたしたちはやみくもに隣人を愛そうと思っても実行できません。隣人愛の土台となっているのは、知らず知らずに学んできたイエスの教えです。
たとえば、「わたしの隣人とはだれですか」との問いかけに答えて話してくださった「良いサマリア人のたとえ」や、兄弟をゆるすように促す「放蕩息子のたとえ」など、わたしたちが隣人愛を実践する土台は、しばしばイエスの教えから来ています。ですから、隣人愛はそのまま、あなたがイエスという「地の塩」「世の光」を表すことにつながります。
結局、わたしたちが「地の塩」「世の光」であるのは、イエスに結ばれてこその話なのです。お話した3つの取り組みでわたしたちがイエスに堅く結ばれる生活をすれば、わたしたちは「地の塩」「世の光」であり続けます。そして、この「地の塩」「世の光」を、神は世の中で使って味を付け、真理の光を照らしてくださいます。
わたしたちも、イエスに堅く結ばれることで「地の塩」「世の光」となります。あとは、神が必要な場所で使ってくださるように、自らを覆い隠さないことです。神がこの世界を導く道具としてわたしたちをどうぞお使いください。そんな気持ちをこのミサの中でおささげいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マタイ5:17-37)
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