主日の福音11/01/16(No.514)
年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
この方こそ神の子であると証しする

ビッグニュースが入りました。教皇ヨハネ・パウロ二世が列福されることになりました。教皇ベネディクト十六世は、1月14日(金)、教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿との謁見の中で、尊者・神のしもべヨハネ・パウロ二世(カロル・ヴォイティワ 1920年5月18日−2005年4月2日)の執り成しによる奇跡を認める教令を認可しました。

同日、教皇庁広報部のフェデリコ・ロンバルディ報道官は、尊者・神のしもべヨハネ・パウロ二世(カロル・ヴォイティワ)の列福式が復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の2011年5月1日(日)に教皇ベネディクト十六世の司式で行われることを発表しました。この日認可された教令では、ヨハネ・パウロ二世を含めて、3名の福者、5名の殉教者、5名の尊者を宣言することが認められました。

ヨハネ・パウロ二世の列聖調査は教皇ベネディクト十六世によって2005年5月13日に開始が発表され、同年6月28日から正式に開始しました。2009年12月19日、ベネディクト十六世はヨハネ・パウロ二世を尊者とすることを宣言しました。

教皇庁列聖省が聖人の列に加えられることを最終的な目的として、その調査を宣言すると、その人は「神のしもべ」と呼ばれ、次の段階でその人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことが公認されることにより「尊者」と宣言されます。さらに「尊者」は、その執り成しによる最低一つの奇跡が認められることにより、「福者」と宣言されます。

この日の列聖省の発表によると、ヨハネ・パウロ二世の列福手続きの際、審査された奇跡は、カトリックの母なる小さき姉妹会(Institut des Petites Soeurs des Maternites Catholiques)のマリー・シモン・ピエール・ノルマン修道女(Marie Simon Pierre Normand)のパーキンソン病の治癒です。(以上、カトリック中央協議会のホームページからの引用)

1月10日、成人の日に、長崎市小江原にあるお告げのマリア修道会本部で、誓願式が行われまして、わたしもミサに参加して誓願を立てる人と一緒にミサの中でお祈りしてきました。

わたしは常々思うのですが、身分はどうであれ、司祭よりも修道者の方が数段偉い人たちだと考えています。長崎教区を例にしますと、司祭に叙階された人は、だいたい数年のうちには主任司祭になりまして、どこかの教会に赴任してその小教区のすべてに責任を持つ人になります。「主任神父さま」と言われるようにもなります。しかも30歳になる頃にはそう呼ばれるのです。

ところで、修道者の方々は、終生誓願という一生涯にわたる誓いを20歳代後半か、30歳代で立てるのですが、だからと言って30歳代で小教区の代表者になれるわけでもありませんし、「シスターさま」と呼ばれることもありません。修道院では院長になることは、責任をまかせられた身分ですが、シスターたちがすべて院長になるかというとそんなことはありません。

司祭は、ミサをささげる権限と、ゆるしの秘跡をおこなう権限が与えられます。修道者はこれといった権限が与えられていません。修道者が司祭の働きを支えるために働いてくださることはあっても、修道者の働きを支えるために司祭が働くなどということは聞いたことがありません。修道者の多くは、縁の下の力持ちで、本当に、神さまだけが知っている働きに自分をささげる人々です。

ほかにも見える違いがあります。誓願を立てる人は、清貧・貞潔・従順の3つの誓願を立てます。司祭は、教区司教に「貞潔と従順」を約束します。3つの誓願までは求められていません。今並べただけでも、「必ずしも表に立つ人になるわけではない」「ミサをささげることも、ゆるしの秘跡をおこなうこともない」それでも「3つの誓願を立てて一生をささげる」これが修道者の姿ですから、わたしは司祭よりも数段偉いのではないかなぁと思っているのです。

さて、福音朗読に選ばれたのは洗礼者ヨハネの証しについて書かれた箇所です。彼が3つの誓願を立てていたかはわかりませんが、彼の暮らしぶりは「清貧・貞潔・従順」の3つの誓願を立てている修道者の生活を思わせるものです。

さらに言うと、洗礼者ヨハネは本来は表に立つ役割ではなくて、自分の後に来られる方に人々の心を準備させ、道を譲るために働いていました。表に立たないで、すべてを神にささげた洗礼者ヨハネの生き方も、修道者の生き方に通じると思います。

この洗礼者ヨハネは、自分が見たことを証言し、その方について大いに言い広めます。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・32-34)

特に、洗礼者ヨハネの次の言葉に、誓願を立てる修道者の姿と重なる部分を感じます。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」司祭も修道者も、みずからが従う相手であるイエスに、何かを見たので、従おうと決めた人々です。

「何かを見た」と言う人は、もはやほかのものにこだわらない人に生まれ変わります。それは服装についても、あてはまると思います。司祭は普段着を着ることも多いわけですが、長崎教区の場合修道者は修道服をずっと着ています。わたしが普段着で青方に行って、エレナとかオサダにいても気づかない人も多いでしょうが、修道者に気付かない人は誰もいません。

修道者の方々は修道服を全く気にすることなく生活の中で着こなして、身なりで証しをしています。すごいことだと思います。修道者は偉いと、いろんな例を挙げました。けれども、ただ偉い人と言われるだけでは未完成です。誰かが、あのような生き方をしたいと考えるようになること。この動きがあって完成するのだと思います。

ちなみに、司祭を目指す神学生がいきなり増え始めたのは、教皇ヨハネ・パウロ2世が来日してからでした。圧倒的な存在感で、司祭職への憧れを種まきしてくれました。当時の教皇さまの動作1つ1つが、心を躍らせました。おそらく世界中で、同じような現象があったかもしれません。

「何かを見た」その確信を持っているなら、わたしたちも洗礼者ヨハネのように、教皇ヨハネ・パウロ2世のように、誰かの心にイエス・キリストを届けることができるのではないでしょうか。

司祭も、修道女も、それぞれ、自分の持っている確信をどのように伝えるか、考えることにしましょう。ぜひ、浜串小教区出身の司祭・修道者を神さまから頂けるように、年間主日の初めに当たり、願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マタイ4:12-23)
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