主日の福音11/01/09(No.513)
主の洗礼(マタイ3:13-17)
イエスの洗礼は共に歩むための模範

昔話になりますが、中学3年生の時、中学生なりに命がけで先輩にゆるしを乞うたことがあります。中学3年生の時とはもちろん神学校時代のことですが、当時は神学校もかなり上下関係が厳しくて、先輩の言うことは絶対でした。

食事を例に紹介しましょう。6人がけのテーブルに、縦割りの班分けをして席が決められていまして、高校3年生から中学1年生までだいたい均等にそれぞれのテーブルに座ります。その中で高校3年生の命令は絶対でして、「おい、ご飯つげ」と言われれば、中学1年生が「はい」と言ってつぐことになっていました。

部活動で夕食に遅れようものなら、高校3年生に遅れた理由を直立不動で話し、先輩がゆるしてくれるまで食事の席に着くことはできませんでした。当時はそれが通っていたわけで、わたしたちも「遅れて来た方が悪い」と思っていたわけです。

そんなある日の夕食、この日はわかめのスープが食事に付いていました。食事が始まると、中学1年の子がわかめスープを飲もうとしません。あー、嫌いなんだなとすぐにわかったのですが、高校3年生の先輩はそれをゆるしてくれませんでした。

「おい、何でわかめのスープに口をつけないんだ」切れ目の、ヤンキーの髪形をした高校3年生でした。ちょうどここの前任者のような顔立ちでしたね。中学1年生は縮みあがり、しまいにはしくしく泣き出して、わたしたちも「参ったなぁ」と成り行きを見ていました。

「お前がスープを飲んでしまうまで、晩飯は終わらないからな。」夕食の後、小一時間自由時間があって、制服を着たままサッカーをしたり卓球をしたり、ギターを弾いたりして楽しむのですが、先輩がゆるさなければ食事は終われません。こいつはどうしても食べてくれそうにないし、どうしたらいいかなぁ、と考えました。

そこでわたしはある行動に出ました。わかめのスープが全部なくなれば、先輩も無茶は言わないだろう。そう思ったわたしは黙々と、わかめのスープをお代わりし始めました。とにかくたいらげなければと、飲み続けたのです。

テーブルにはほかにも先輩後輩いたのですが、わたしの行動を理解して、協力してくれる人は誰もいませんでした。みんな蛇に睨まれたように、身動きできなかったのです。5杯、10杯、最終的には13杯お代わりしたでしょうか、最上級生がこう言いました。「中田。わいはよっぽどわかめがすきなぁ。」てっきりわかってくれたと思ったのですが、わたしの命がけの行動は、最後まで伝わりませんでした。

最終的に、高校3年生が中学1年生に食べさせることを諦めたので、その日は食堂を出ることができました。あのときわたしは命がけでした。この後輩は、食べることができないから、自分が身代わりになるのでゆるしてほしい。わたしたちが協力して謝るから、ゆるしてほしい。あのとき後輩を、他人とは思えなかったのです。

さて、今日の典礼はイエスの洗礼を祝っています。イエスが洗礼を受けようとするとき、洗礼者ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。けれどもイエスの思いはヨハネの考えを上回るものでした。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(3・15)ここでイエスは、「正しいことをすべて行うのは、わたしにふさわしいことです」とは言いませんでした。「我々にふさわしいことです」と言ったのです。

イエスが、「我々にふさわしい」と言ったのは、どういう意味だったのでしょうか。イエスと、洗礼者ヨハネ2人だけのことを言ったのでしょうか。その可能性もありますが、もっと広く考えると、「神の前にいるわたしたちすべて」ということではないでしょうか。

つまりイエスは、「正しいことをすべて行うのは、神の前にいるわたしたちすべてにふさわしいことです」と言葉に出して、わたしたちすべてが歩むべき道を示されたのです。イエスは、洗礼を受ける必要はありませんでしたが、「我々にふさわしいこと」をすべて実践するために、進んで洗礼を受けてくださったのです。

そうすると、イエスがこれから歩もうとしておられる1つ1つのことが、もっと身近になってきます。イエスは、「我々にふさわしい道」を、歩んでいくのです。だれも歩むことのできない道ではなく、わたしたちが歩んでいけるように、わたしたちと共に歩んでくださいます。

イエスの洗礼の場面で見えてくることは、わたしたちにふさわしい生き方を、先に歩んでくださる姿です。洗礼は、罪を悔いあらためて神に立ち返るためのものでした。人間は、一人では罪をすべて悔い改めることができません。そこで神の独り子が人となって、一緒に洗礼を受けてくださいました。

社会の中で弱い立場にある人、女性や子供たち、配偶者を失った人、重い病気の人、罪人と名指しされた人々。彼らは自分たちだけでは神に立ち直ることはできませんでした。そこでイエスが一緒にその重荷を担ってくださって、歩みを共にしてくださいました。

ある時は、担いきれない病気や悲しみを、奇跡を起こして救い、決して見捨てないことを態度で表しました。もちろんすべてをわたしたちがまねできるわけではありませんが、一人で担いきれない重荷を抱えてしまっている人を、わたしたちも見捨ててはいけない、一人きりにしてはいけないということです。

今年、小教区で独自の聖書を読むチャンスを作りたいと思っています。わたしは、やはり聖書は読み通す、通読しなければ、なかなか聖書に親しくなるのは難しいと思っています。2ページとか3ページ読んで、次の人にバトンタッチする、そういう読み方もあるでしょうが、新約聖書なら新約聖書をを1冊確実に読んでみる、こちらの方をお勧めしたいと思います。そのための手段を、考えてみたいと思います。

この聖書を読み通すという取り組みも、なかなか一人では達成できないわけです。聖書をしばしば開く司祭でも、ずっと読み通すのはなかなか難しい。そこで、考えている取り組みは、みんなで集まって、聖書を読み通すことを目指します。

だれかがくじけそうになる時、一緒に歩いてくれる人が必要です。聖書を読み通すためにも、一緒に歩いてくれる人がいれば、気持ちの弱い人でも続けることができると思います。イエスがわたしたちと共に歩む姿が、ここでも響いています。

共に担ってくださるために、イエスは洗礼をお受けになりました。この時、天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。一緒に歩もうとするイエスの姿は、父である神の御心に適う姿でした。

わたしたちがだれかと一緒に歩もうと努力するなら、わたしたちも父である神の御心に適う者と呼んでもらえるでしょう。一緒に歩いてあげようと思う人が、おそらくだれにでもいるでしょう。ぜひその人を思い浮かべて、共に歩む姿を先に示してくださるイエスについて行く。その気持ちをミサの中でおささげいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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