「身近なことを考え抜いてみる」(2010年純心高校2年生黙想会原稿)

2010年純心高校2年生黙想会「身近なことを考え抜いてみる」
テーマ
「身近なことを考え抜いてみる」


第一講話

●また来たね〜。純心中学3年生の時に黙想会に参加した人は、「また中田神父かいな」とため息ついているかも知れません。ハゲのおっさんで本当に申し訳ありません。自分で言うのも何だけど、昔は痩せてて、髪もふさふさだったんだ。それが、35歳過ぎたあたりから、体型も髪型も維持できなくなって、今は典型的なオジサンになってしまいました。
●さて、今年の黙想会は、「身近なことを考え抜いてみる」これをテーマに話してみたいと思います。わたしも南山高校から慶応大学の通信教育部と、いちおう最高レベルの勉強をさせてもらいましたが(慶応大学の卒業証書)、物事を考え抜くという訓練を積む機会には、それほど恵まれなかったと思っています。
●いざ、高校生になってみると、いっぱい勉強する内容があるけれども、とことん考え抜くというような勉強の仕方ではなくて、中間試験まで勉強したら、勉強したことは頭からすっかり出してしまって、次の内容を勉強し、期末試験が来ればまた、そこまで勉強したことを頭から追い出してしまう。目一杯勉強しては、空っぽにして次の勉強をする。その繰り返しだったような気がします。
●高校生の頭は、まだまだ柔軟な脳みそが詰まっています。オジサンの頭の中には、もはや凝り固まった考え方に支配された脳みそしかありませんが、高校生はそうではありません。そんな時期に、勉強しては空っぽにするという学び方ばかりで頭を使うことが、本当によいのだろうかとわたしは疑問を感じるのです。
●たとえば、ここにルービックキューブがあります。これは、解き方の本も、書店に行けば売ってます。もちろん買った時にも、小さな説明書が入っています。解説書や、メモを見て、書かれてある通りに動かせば完成させることができますが、何も見ないでも、知能だけで完成させることもできるのです。何も見ないで完成できた場合、その人のIQは130くらいだと言われます。
●ちなみにわたしは、高校1年生の時に初めて六面完成しました。完成するまで一ヶ月かかり、その間、学校の勉強も適当にごまかして、ルービックキューブだけに頭を使いました。寝ても覚めても、どうやったら完成するのか、考え抜いたのです。今は、解き方をマスターしているので、3分で完成できます。
●もちろん、ルービックキューブの解き方のために、学校の勉強を怠けなさいと言っているのではありません。学生ですから、学校の勉強が最優先です。けれども、この3年間に、考え抜くという訓練をしないで高校生活を終わるのは、もったいないと思うのです。あまりにももったいない。
●そこで、今日1日を使って、考え抜く訓練をしてみたいのです。きっかけを掴み、3年生になった時に、いくつかのことについて、考え抜いて欲しいのです。いきなりたくさんのことを考える必要はありません。今は、考え抜く訓練が大切です。考え抜く訓練を積んだ人は、一生涯、考え抜くことができる人になれるからです。今、慌ててすべてを考え抜く必要はありません。一生涯をかけて、いろんなことを考え抜けばよいと思います。
●今日、中田神父が話をする時間は2回あります。2回とも、同じ形で話を進めていきます。まず、日常生活の中から、考え抜く材料を用意してみます。次に、日常生活から選んだ材料を、キリスト教的な考え方、特に聖書と結び付けて、考えを深めます。日常生活の出来事の中に、日常の出来事を超えた深い意味があることを、感じてもらえたらと思っています。

【開く】と【閉じる】
●たとえば、「開く」という言葉を例に考えてみましょう。ちなみに、「開く」に対して反対の言葉は、「閉じる」です。「開く」と「閉じる」は、本来は単なる動作を表す言葉です。「開く」という動作は、もちろん何かを開くということで、「門を開く」と言えば、今閉じられている門を開く、ただそれだけに過ぎません。けれども、開くものがまったく違う場合、まったく違う意味になります。場面によっては、単なる行為、単なる動作ではない意味が生まれてきます。
●試しに、「心」に当てはめてみましょう。「心を開く」「心を閉じる」。こういう使い方をすると、それは、単に状態が変わるというだけではなくなってきます。「心を開く」とは、心を打ち明けることですし、「心を閉ざす」とは、誰にも心を打ち明けなくなるという意味になります。そこには、単に状態の変化だけではなく、その人の積極的な態度、または消極的な態度まで表されるのです。
●「開く」「閉じる」という言葉に、「心」を組み合わせましたが、人間が心を開く、あるいは心を閉じる時、文字通り心の動きが見られるわけですから、どのような心の動きなのかを考えてみましょう。わたしたちが心を開く時、心を開く相手がいるはずです。反対に、わたしたちが心を閉ざす時、そこにも心を閉ざす相手がいるはずなのです。
●なぜ、人は相手によって心を開いたり、心を閉ざしたりするものなのでしょうか。わたしは、その人が、相手を信用しているか信用していないか、そこにすべてがかかっていると思います。信用できる相手には心を開くし、信用できない相手には心を閉ざしてしまう。たとえその相手が、親(保護者)であったり恋人であったり、兄弟姉妹であったとしても、信頼できなくなれば心を閉ざしてしまうのではないでしょうか。
●相手が信用できる時、人は心を開くということが、ある程度当てはまるとしましょう。信頼関係が築き上げられ、心を開くことができるようになりました。もしその後に、信頼できていた人が信頼できなくなり、心を閉ざしてしまったとします。それでも信用してほしいと相手が言っているとして、その時人は、どうやって信じる気持ちを取り戻し、心を開くことができるのでしょうか。
●いったん築き上げたものが壊れてしまった後に、もう一度その関係を元に戻す。これは並大抵のことではないと思います。もう一度相手を信頼する。あるいは何度でも人を信頼し、心を開いていく。そのためにはものすごく大きなエネルギーが必要になります。人間は、そのための力を、どこから手に入れるのでしょうか。
●わたしは、複雑にこじれてしまった関係の中で信頼を取り戻すには、人間の力を超えた何かが必要だと考えています。カトリックの神父として言わせてもらえば、それは神の力です。神の導き、働きかけこそが、人間にどこまでも人を信頼し、信じて、相手に心を開く力の源を与えてくれるのではないかと思っています。
●ここで、イエスの物語を一つ紹介したいと思います。イエスはこの物語の中で、「開け」という言葉を力強く語り掛けます。さっそく読んでみます。

【マルコ7章31-37節】
「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7・31-37)

●今朗読した聖書の物語は、奇跡物語という分類に含まれる物語です。奇跡が実際に起こったのかどうか、また、奇跡は科学的に証明できるかどうか、そういったことはここでは取り扱いません。ここでわたしが取り上げたいことは、イエスは向かい合ってその場にいる人に、「エッファタ(開け)」と言ったということです。
●なぜ、この「開け」という言葉が大事なのでしょうか。わたしは、「開け」という言葉は、相手の人が持っている積極的な部分を引き出す、最高の言葉だと思うからです。そして、誰かに対して絶対の自信を持って「開け」と言うことができるのは、単なる人間ではなく、人間を超えた方でなければ言うことができないのではないかと思っています。
●ここで追体験をしてみましょう。わたしが、みなさんの中の1人に近づいて、「開け」と言ってみようと思います。先ほどの朗読で登場した人は、耳が聞こえず、舌の回らない人でしたが、条件を変えてみます。「目が不自由な人」という条件にしてみましょう。
●全員、目を閉じて、わたしがみなさんの中の1人に近づくまで待ってください。合図は、中田神父が近づいたその人の肩に手帳を置くのが合図です。肩に手帳を置いたら、「今、ある人に手帳を置きました」と言います。そして、全員が合図を知った後に、「開け」と言います。「開け」と言った後は、目を開いて結構です。
●今回、合図は1人にしかできませんが、「開け」という言葉は、全員に聞こえます。目を閉じている間に、もし自分に、「心を閉ざしていること」があるとしたら、そのことを合図の瞬間まで思い続けていてください。
●誰かに心を閉ざしているとか、自分の正直な気持ちに心を閉ざしているとか、夢や希望を誰かに諦めるように言われて心を閉ざしているとか、もし何かあれば、思い続けてください。そのあなたに、中田神父が「開け」と言ってみたいと思います。もしかしたら、少し変化が起こるかも知れません。

●さて追体験を終わり、聖書の話に戻りましょう。

●イエスは、向き合っている人に、「開け」と言いました。イエスと向き合っているこの人は、自身が抱えている障害のために、人に心を開くことができなくなっていたのだと思います。人に心を開くことができず、心を閉ざしていました。人に心を閉ざしているということは、その人が相手を信頼できていないということです。
●誰も、信頼できなくなってしまっていたこの人が、イエスの前に連れて来られ、人々は、何が起こるかとその場面を見守っています。そこでイエスは、耳が聞こえず舌の回らないその人に、もしかしたら生まれて始めて人を信頼してみようと思えるようになる言葉をかけたのです。それが、「エッファタ(開け)」という言葉でした。
●わたしはこう思います。人が、人に心を開く。それはとても積極的な動きです。そして人間は、この積極的な動きをいつもいつも続けることができればよいのですが、続けられない時もあると思います。
●どうしても心を開けない。そんな時、イエスはわたしの心の中で、「エッファタ(開け)」と言ってくださっているのではないでしょうか。つまり、人を積極的な方向に向かわせる力、閉ざしてしまっている心を「開け」と励ましてくれる力は、神から来るのではないかと思うのです。
●反対に、「心を閉ざす」動きは、神から来る動きではないと思っています。誰も信用できない。誰も近づけたくない、誰も近づいて欲しくない。そんな、消極的な心の動きは、神から遠く離れた動きだと思います。
●そう考える時、今わたしたちが幸運にも誰かに心を開いているとしたら、その人は今その時に、神と出会っているのではないでしょうか。神が心の中で働きかけ、「開け」と言ってくださり、あなたは誰かに対して信頼の心を持ち、心を開くことができているのではないか。そう思います。
●わたしたちのふだんのちょっとした出来事、「開く」時と「閉じる」時。そこに、神の働きかけが感じられ、ある時は神から遠く離れた心の状態にあるのでしょう。「開く」という、日常のごく普通の言葉、ごく普通のしぐさを通して、わたしたちは神と出会い、神に触れる経験ができているのではないでしょうか。
●「開く」というたった1つの言葉でしたが、ここまで考え抜いたことは今まで経験がなかったかも知れません。もし、経験がなかったとしたら、今年の黙想会は良いチャンスをもらうことができたことになります。
●「開く」以外にも、とことん考え抜くと、すばらしい体験に出会える言葉がまだまだたくさんあります。たとえば、「聞く(聞き従う)」とか、「知る(愛する)」などです。どちらも、わたしは同じように30分くらいの話ができます。考え抜いた経験があるからです。

【祈り】
●ここまで「開く」という言葉に積極的な意味を見つけようと話してきましたが、「閉じる」という言葉にはあまり積極的な意味を探そうとしませんでした。「閉じる」という言葉に申し訳ないので、わたしが考える究極の積極的な意味を紹介したいと思います。
●まず、「開く」「閉じる」を「手」に当てはめてみましょう。人間の手は、いまだにどんなロボットよりも繊細で、緻密、そして自在なんだと感心させられます。手の働きは、やはり偉大なのだとあらためて思わされるのですが、こうした手の働きに共通することを、中田神父なりに一点紹介しますと、それは、「手は、開かれているときこそ、力を発揮する・偉大な活動をする」ということです。
●ものを掴む、字を書く、握手する、手触りを感じる。どの場合も、手が開かれていることが大きな条件であることは明らかです。何か目標のものに手を出すとき、握り拳をしたまま手を出していくということは、普通では考えられないわけです。
●このことを前置きして、「手が開かれていない」状態について考えましょう。これまでの考えの流れに沿っていけば、手が「閉ざされている」ということは、活動していない状態、生産しない状態を意味するわけです。確かに握り拳のまま手を突き出すことは、たとえそれがケンカであっても、まったく非効率的、非生産的です。
●ここまで言い切ったにもかかわらず、一般的には、非効率的・非生産的と思われている状態、手を閉じた姿で、一つ、自由に活動するチャンスがあります。チャンスというのでしょうか、そういう「場」というのでしょうか、とにかく、手を閉じて活動するときがわたしたちにはあるのです。
●それは、「手を合わせる」「祈る」ということです。普通であれば、「閉ざされた状態」は活動が停止し、何も生み出さないわけですが、この「祈り」に限っていえば、人間は手を合わせ、手を閉ざすことで、逆に活動的になっていくのです。
●手をいっぱいに開けば、大きなものを抱えて動かすこともできます。もしも手を閉ざしていたら、普通であれば何も動かすことは叶わないのですが、見方を変えると、手を合わせて祈る人は、開いた手で動かすその何倍もの大きなものを、動かすことがあり得ます。
●例を挙げましょう。遠くにいる人が、ある人の幸せを心から願ったとしましょう。その願いが真実なものであり、願いが叶うことを決して疑わないなら、その願いはきっと叶えられ、願ったその相手に届きます。もし、一人の人の祈りによって、それまで八方手を尽くしても態度を変えなかった、心を動かされなかったある人の命を救うことになれば、動くはずのない人を動かした、ということになります。
●また、人間はものを動かし、時には人を動かすわけですが、手を合わせ祈る人は、ある意味で神さまを動かす人です。それは、手を働かせてもどうにもできない偉大なお方を動かすという意味では、なにものよりも大きなものを動かしているということにならないでしょうか?
●こうして、人間の祈りは、手の働きとして考えられる中でも、最高の働きをするということが、不思議ではありますが、可能になってきます。いちばん非効率的、非生産的と考えられていた「閉ざされた手」が、実際にはいちばん大きな働きをするのです。
●問題は、このことを体験として感じておられるかどうか、身につけておられるかどうか、ということになります。こうしてわたしはお話を準備しながら、まずは原稿作成のためにものすごい早さでパソコンのキーボードを打ち続けているわけですが、ここまで手が動き出す前に、やはり落ち着いて内容の展開などをまとめる時間が必要です。
●それはしばしば、腕組みをした状態が多いのですが、たまには手を合わせて祈っている(必ずしも合わせなくてもいいのですが、少なくとも祈ることで手は活動休止の状態です)わけです。この時間、腕を組みながら、祈りながら考える時間がなければ、中田神父からは何事も生み出されないというのが正直なところです。
●今の話は小さな体験ですが、何かしら、祈りによって同じような体験をした人がいれば、ぜひそのことをほかのお友だちに知らせてください。「手を合わせて、祈ることで、いちばん大きな働きを果たしていく体験をしてみない?」そういうお誘いができるなら、とってもすばらしいことだと思います。
●今日一日、まったく手を合わせることなく一日が過ぎていった。それは、中田神父に言わせてもらうならば、あなたの手を使ってできる、いちばん大きな活動を、今日一日体験しなかった。「一瞬にして神をも動かす」その体験に触れるチャンスを失ったと同じなのです。これは、大げさな話だと思うでしょうか?
●では1回目の話を終わるにあたり、手を合わせてみましょう。手を合わせ、祈ることで、人間に与えられた「手」の持つ可能性を、最大限引き出す体験をしてみたいと思います。特に、「わたしにはたいしたことは何もできない。」そう尻込みしているあなたと、中田神父は一緒に祈りたいと思います。

●祈り。

●あなたの手を、祈るために使ってみてください。きっとこれまでとは違った、「活動する自分」「働き続ける自分」を発見することでしょう。


















第二講話

【喜ぶ人と共に喜ぶ】

●2回目の講話では、「喜ぶ」ということについて考え抜いてみたいと思います。特に、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことを、掘り下げてみましょう。この、「喜ぶ人と共に喜ぶ」という表現は、新約聖書の中の、聖パウロがローマの信徒に宛てて書いた手紙の中に出てくる表現です。少し長いですが、そのまま引用します。

【キリスト教的生活の規範(ローマの信徒への手紙12章9-21)】
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

●1つの体験を通して、話を進めていきます。それは、熊本にある「菊池恵楓園」の入所者との出会いです。まずは、「菊池恵楓園」がどういう場所か、予習をしておきましょう。
●「菊池恵楓園」は、厚生労働省のもとに置かれている国立ハンセン病療養所の1つです。全国に13カ所あります。ハンセン病について、知識のない人もおられると思いますが、「らい菌」への感染によって引き起こされる感染症です。以前は、「らい病」と言っていました。
●伝染力は非常に低い病気です。現在日本で、新たに感染する人は、年に1人いるか、いないかです。また感染して発症しても現在の医学では適切な治療を行えば治癒が可能で、重い後遺症を残すことも、本人が感染源となってしまうこともない病気です。
●日本は、1907年(明治40年)に定められた「らい予防法」という法律によって、ハンセン病患者を世間から隔離して扱うという方針をとりました。そのため、ハンセン病患者は、全国にある国立ハンセン病療養所に入れられて、多くの人が、そこから出ることなく、一生を終えていきました。
●1996年(平成8年)4月1日法律が廃止され、ハンセン病患者を隔離する政策を廃止しました。それに伴い、一般の病院で診察してよいことになりましたが、誤解や偏見があったために、病気が完治しても家族が受け入れてくれず、連絡を拒否されたり、仮に亡くなってお骨になっても、「お骨になっても」引き取ってもらえなかったりしたのです。
●わたしは、これから話す務めを引き受けたことで、ハンセン病患者が生活している「菊池恵楓園」を知ることになり、その入所者とも知り合いになっていきます。ひとまず、「菊池恵楓園」と、そこに入所しているハンセン病患者のことについて、前置きの話をしました。
●さて、わたしが引き受けた務めというのは、長崎市に活動の拠点がある「声の奉仕会・マリア文庫」というボランティア団体への協力です。名前の通り、「声」で奉仕をする団体です。責任者は、愛宕にある女子修道会のシスターです。この人が中心になって、目の不自由な人に、いろんな情報を定期的にお届けしようというのがマリア文庫の活動の趣旨です。
●活動の1つは、毎月、「アヴェマリア」という名前の付いた録音CDを全国の目の不自由な会員に届けることです。よく知りませんが、1000人くらいの会員がいるのだと思います。お届けするCDには、人気になっている書籍を、ボランティアで朗読したものが収められていたり、生活に必要なものがどこに行けば手に入るとか、行政の窓口のどこに行けば必要なサービスが得られるとか、あるいは会員同士の声の便りを紹介したりします。
●そして毎月の盛りだくさんの内容の中に、「心」を豊かにするための宗教コーナーという1回15分の枠があるわけです。この宗教コーナーの担当神父として、ちょうど8年前から、手伝いをしています。年に11回、8年間で88回のお話をマリア文庫を通して目の不自由な人に届けました。
●まだ、「菊池恵楓園」の入所者との接点は出て来ませんが、もう少し待ってください。マリア文庫の宗教コーナーを引き受ける時、「どんな人がお話を聞くのですか」とシスターに尋ねました。すると、「宗教を持っておられる人、持っておられない人、いろんな視覚障害者の人が聞いてくださいます。けれども、中田神父さまは、カトリックの立場から、遠慮なくお話しして結構ですよ」と言われました。話を聞いて、それでは一般的に、心に響くお話を準備するようにすればよいのだなと思い、そのつもりで毎月お話を準備し始めたわけです。
●15分の話を録音して届けるようになってから4回目のことです。わたしは、当時聴覚障害者のためにも働いていて、手話を通してお世話していました。その経験を生かして、視覚障害者の人に簡単な手話を教えてあげれば、視覚障害者の人と聴覚障害者の人がふれ合うことができるのではないだろうかと思い、4回目の話で簡単な手話を紹介することにしたのです。もちろん、目が不自由ですから、手話を教えるのは相当難しいだろうなぁという覚悟をもって、録音した話を準備しました。
●当時の録音のために準備した、文字の原稿を引用します。2つの手話表現を盛り込みました。「わたしは、あなたと友達になりたい」という表現と、「手話をわたしに教えてください」という表現です。当時の原稿をそっくり読み上げます。本当にこの録音で、手話を覚えることができるか、話を聞きながら、手話を試してみてください。

【わたしは、あなたと友達になりたい】
●手話表現は「形あるもの」なのですから、それが身に付けばたとえ相手が見えなくても十分にメッセージを伝えることができるわけです。「あなたのことをもっとよく知りたい」「あなたと友達になりたい」という手話ができるようになれば、また新たな対話の扉、交流の窓が開かれるのではないでしょうか?
●そういうことで、半ば強引なのですが、今回は手話表現を紹介したいと思います。もしも手話に興味を持ってくださいましたら、その先はどなたか手話通訳者とお友だちになるとか、あるいはどなたかろうあ者と知り合って、世界を広げてくださったら幸いです。
●で、どんな手話表現を紹介するかですが、これまた行きがかり上、2つの表現を紹介したいと思います。次の2つはどうでしょうか?「わたしは、あなたと友達になりたい」「手話をわたしに教えてください」
●「わたし」「あなた」は、いちばん簡単です。人差し指で、自分の胸を差して「わたし」「あなた」は、そこにいるであろう相手を意識して、指差します。「友達」は、両手を、まるで握手するかのように自分で握って、時計回りに、水平に回します。
●「成る」というのは、まず両手を、胸の前で肘から先をまっすぐに立てます。手のひらは胸に向けて立ててください。両手をまっすぐに立てた状態から、その腕を胸の前で交差させて、×の形にします。この一連の動きで、水平にまっすぐ立ったものが×の形に「成る・変わる」という意味になります。
●最後に、「〜したい」ですが、これは、右手の人差し指と親指を開いた状態であごをしっかり受け止め、その状態から指を狭めながら下ろします。これで、「〜したい」です。
●最終的には、これらを組み合わせて、「わたしは」「あなたと」「友達に」「なり」「たい」と表現するわけです。わたしの説明が独りよがりになっていないことを祈りたいです。自分だけが分かっている説明になっていないことをただただ願っております。
●ここまで、うまくいきましたか?一生懸命やっていると、案外熱がこもって、「わたしの手話で言いたいことを伝えた〜い」という気分になるから不思議です。わたし自身、ふだんは自分の言いたいことを何不自由なく言えているのに、いざろうあ者に手話で伝えるとなると、簡単な言葉の手話ができずにもがき苦しむのですが、案外その時が、真剣にコミュニケーションを取ろうとしている瞬間なのかもしれません。
●皆さんも今この瞬間は、「わたしはあなたと友達になりたい!」と真剣に考えているのではないでしょうか?その勢いを買って、もう一つ練習してみましょう。「手話をわたしに教えてください」。
●「手話」という手話ですが、胸の前で、人差し指二本を使って、漢字の「二」を表現してみてください。その状態から、交互に、前方に指を回します。うーん、ここからが難しいのですが、たとえば音楽CDの円周に沿って回す感じと言ったらいいでしょうか?または、蚊取り線香の大きさくらいに前方にぐるぐる回すと言ったらいいでしょうか?
●「手話をわたしに」「わたしに」は「わたし」だけで通じます。「教えて」これは、「教えてもらう」「教わる」ほうです。人差し指を右前方に突き出して、その場所から人差し指を自分のほうに何度か寄せてきます。ポイントは、「教えてもらう」わけですから、少し右斜め上から指を少し下ろしながら自分に近づけるのがコツです。動かす距離は、前方30センチくらいのところから。自分に向けて何度か動かすといった感じでしょうか。
●「ください」は、右手の肘から先を垂直に立てた状態で、軽くお辞儀をすると良いでしょう。右手を立てた状態で、「おねがいします」とやるわけです。でも本当は、「おねがいしますとやってください」では、説明になっていませんね。
●最後に、たとえ今回の手話に興味を持ったとしても、身の回りが手話を活かせるような環境にないという人も多いことでしょう。そのような人に一つのことをお勧めいたします。今日覚えた手話を、あなたの信じる神さまに向けてなさってみてください。あなたの信じる神に、「わたしは、あなたと友達になりたい」「手話をわたしに教えてください」と、手話を交えて祈ってみてはいかがでしょうか?いつかきっと神さまが、あなたの願いに答えてくださるに違いありません。

【お役に立てて嬉しいと「ぬか喜び」】
●この手話の話を15分にまとめて録音し、マリア文庫の事務局に録音したCDを郵送しました。わたしはすぐこう思ったのです。「オレって、めちゃめちゃ役に立ってるやん。視覚障害者と聴覚障害者の交流を発案して、しかも最後には『神さま、わたしはあなたと友達になりたい』って神さまの話でオチを付けて、天才と違うやろか。」相当、いい気になっていました。
●さらに、輪を掛けてわたしを喜ばせる出来事が舞い込んできます。その年の暑中見舞いで、「菊池恵楓園」という所から、たくさんの暑中見舞いが届いたのです。じつはこの暑中見舞いが来るまで、「菊池恵楓園」がどんな所で、どんな人が暮らしているのか、何も知りませんでした。
●暑中見舞いには、「いつも興味深い話を月刊アヴェマリアに吹き込んでくださり、ありがとうございます。毎月毎月、楽しみにして聞いております。手話の話も、とても新鮮でした」と書かれていたんですね。これを読んで、喜ばない人はいないでしょう?「オレもまんざらでもないなぁ」って、本気で思いましたね。
●そうこうしているうちに、1年が過ぎました。春も近いなぁという時期に、マリア文庫の代表のシスターが、こんな相談を持ちかけてきたのです。「わたしたちマリア文庫は、年に1度、月刊アヴェマリアを届けている人々の中で、『菊池恵楓園』に入所している人を訪問するようにしているのです。」
●「ご存じないかも知れませんが、『菊池恵楓園』の入所者は、ハンセン病患者です。その上にさらに、視覚障害者の人々がおられます。わたしたちの月刊アヴェマリアは、その、ハンセン病患者でなおかつ視覚障害者の人々のもとに届いているわけです。ぜひご一緒に、『菊池恵楓園』の訪問においで下さい。」
●わたしは二つ返事で、「もちろんですとも。わたしもご一緒させてください」と言いました。そして4月に、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」の訪問が実現したのです。わたしたちマリア文庫の一行は、マイクロバスで熊本の菊池恵楓園に向かい、すべての入所者に会うわけではなくて、月刊アヴェマリアでつながっている、視覚障害も抱えている人々との交流のひとときを持ったのです。
●さっそく、入所者の人々が玄関でお出迎えしてくれました。わたしは前の年にいただいた暑中見舞いに名前の書かれていた人を探して、「○○さんですね。やっと会うことができました」そう言って、何気なく手を差し伸べたのです。
●その時でした。相手の人はちょっと遠慮がちに、右腕の袖を伸ばしますと、指が一本もない右手をわたしに差し出したのです。わたしはギョッとしました。ためらうことなく、その右手を握りしめたつもりですが、実は心の中では、本当はためらいがあったのです。
●ハンセン病患者の人と、握手をすることをためらったのではありません。わたしには予備知識があり、握手をしてもまったく感染することもないし、握手した手を洗わなければいけないということもない。そういう知識はすでに十分持っていました。
●そうではなく、この入所者のみなさんが暑中見舞いで、「毎月毎月、楽しみにして聞いております。手話の話も、とても新鮮でした」と葉書を寄せてくれていたのだということを、思い出したのです。「手話を身につけると、世界が広がりますよ」と、何も知らずに話していたわけです。指が一本もないのに、どうやって手話を十分に表現することができるでしょうか。それなのに、暑中見舞いでは、とても楽しみです、新鮮な話ですと、わたしを喜ばせてくださったのです。

【「喜ぶ人と共に喜ぶ」喜び】
●わたしは打ちのめされました。菊池恵楓園の訪問の間、入所者と楽しい会話を交わし、施設内を一緒に回り、とても温かい雰囲気の中で過ごすことができました。けれどもわたしの心は曇っていました。「わたしの奉仕は、メチャメチャ喜ばれている」そう思って菊池恵楓園を訪ねに行ったのです。帰り道は、本当にみじめな思いでした。
●わたしはずっと考えました。考えに考え抜きました。「入所者の人々が出してくれた暑中見舞いは、単なる気休めだったのだろうか。わたしを悲しませないために、手話ができないことも知らせるのを遠慮して、喜んでいるふりをしてくれていたのだろうか。」
●もちろん、すぐにその思いは消えました。彼らが、心を偽って喜んでくれているはずがありません。きっと、素直に喜んでくれたはずなのです。その気持ちを、実際に会って、ハンセン病のために手足の先端をすべて失った姿を見た時に、わたしが素直に受け取れなかった。わたしは素直に喜べなかった。そういうことなのだと思います。
●何が、違うのでしょうか。目の不自由な人に、「手話」を紹介した。そのことを菊池恵楓園で出会った人たちは新鮮な話として素直に喜んでくれた。わたしは、それを素直に喜べなかった。何が、違うのでしょうか。もしもわたしが、入所者の人と会ったその場で一緒に喜び合えたら、どんなにすばらしい時間を過ごせたことでしょう。残念ながらわたしには、それができませんでした。
●答えが出ないまま、ずっと考えていたんです。そしてある時、気づいたことがありました。「喜ぶ」という人間の自然な働きを、菊池恵楓園で出会った人々はわたしの何倍も深く、理解していたのではないだろうか。嬉しい時だけ「嬉しい」と喜ぶのではなく、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)というあの聖パウロの言葉を、文字通り生きていたのではないだろうか。そう思ったのです。
●「喜ぶ人と共に喜ぶ」。実は簡単そうで、簡単ではありません。誰かが喜んでいても、自分は喜べる気分ではないかも知れません。自分が嬉しい時だけ喜ぶのであれば、喜んであげることのできない時も当然あるわけです。
●中田神父が用意した月刊アヴェマリアの4回目のお話。自分では「よく書けたなぁ」と満足していましたが、本当は喜べない環境にある人々が、「興味深い話だったなぁ」と喜ぶためには、「喜ぶ」ということの究極の意味を知っていなければ、できないはずなのです。それはつまり、「喜ぶ人と共に喜ぶこと」です。「喜ぶ」ということの本当のすばらしさは、喜ぶ人と共に喜ぶ時に、発揮されるのではないでしょうか。

【まとめ】
●2回目の話をまとめましょう。「喜ぶ」ということについてとことん考え抜きました。「何かを喜ぶ」というのは、何気ない、日常の出来事ですが、中田神父は「喜ぶ」ことの深い意味を、たくさんの人々との出会い、特に菊池恵楓園の入所者との出会いの中で、体験しました。
●「喜ぶ」という働きは、嬉しい時に喜ぶことだけではありません。「喜ぶ」ことの究極の意味は、「喜ぶ人と共に喜ぶ」、その時に発揮されるということです。そのことを中田神父に教えてくれたのは、イエス・キリストに導かれて生きた人、聖パウロでした。聖パウロが教えてくれたというよりは、聖パウロを通して、イエス・キリストが「喜ぶ人と共に喜ぶ」すばらしさを、教えてくれたのだと思います。

【講話の終わりに】
●2回目の話は、少し重い話だったかも知れません。けれども、どうしても伝えたかったので、正直に話しました。今年の黙想会、突き詰めると2つの言葉を考え抜いた、たった2つの身近な体験を膨らませた黙想会でした。つまり、「開く・閉じる」という言葉と、「喜ぶ」という言葉でした。「言葉」と言いましたが、実際には人間の活動と言ったほうがよいでしょう。
●「また中田神父かいな」と、ため息をついて今年の黙想会を始めた人にとっても、2つの話がいくらかでも役に立っていたらいいなぁと思います。4月から、高校3年生に進級します。「そんなことがあり得るか?」と、悩まされることもあるかも知れません。その時思い出してください。「わたしは、黙想会の時に考え抜いた。だから、意味が分からないと思ったことにも、考え抜いてその本当の狙いを見つけ出してみせる。」
●あなたなら、きっとできます。一緒に考え抜いたわたしが、保証します。輝かしい最終学年となることを、わたしもお祈りいたします。