主日の福音10/12/19(No.507)
待降節第4第主日(マタイ1:18-24)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます
先週のクリスマス会は、楽しかったですね。どの出演者もすばらしかったので、審査委員を務めたわたしもずいぶん頭を悩ましました。特にすばらしかったのは、高校生です。できれば高校生は、眠そうな顔でもいいから日曜日のミサに来て、こうやって褒めちぎっているのを生で聞いて欲しいものです。やるときはやるというのは十分伝わったから、あとは、ミサに来てやったぞでもいいから、来て欲しい。
出演者の皆さんご苦労さまでした。わたしも出演したので、出演者の気持ちはよく分かります。緊張する人は、出番が近づいてくると、わたしだけ拍手をもらえなかったらどうしようと、舞台の袖ではそれはもう張り詰めた気持ちになったことでしょう。わたしも、失敗はいやだなぁとすごくプレッシャーを感じていました。
それでも出番は回ってきます。準備が整っていなくても、舞台に上がらなければなりません。逃げ出したいくらい高ぶった人もいるかもしれません。出演者がどうやって恐怖を乗り越えたんだろうと想像します。それはたぶん、今週の福音朗読箇所で登場したヨセフの気持ちに近かったかもしれません。ヨセフは目の前の婚約者が身ごもっていて、起こっていることが飲み込めず、身を引こうとしていたのです。
ヨセフは、マリアのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切ろうと決心までしていました。けれども、主の天使が夢に現れ、勇気づけたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1・20-21)それは、舞台から逃げ出したい気分だったヨセフを、表舞台に立たせるのに十分な言葉でした。
「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」天使が最初に告げた言葉です。わたしは、この言葉ではまだ、ヨセフは表舞台に立てなかったと思います。なぜなら今まさに、ヨセフは恐ろしくなっているからです。恐れている人に恐れるなと言ったって、無理な話です。
何かこれとは違う言葉が、ヨセフに踏ん切りをつけさせたのではないでしょうか。わたしは、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」この言葉こそ、ヨセフに「これなら大丈夫!」と言い聞かせ、舞台に上がらせる力となったのではないかと思っています。
「イエス」という名前は、もとの言葉では「神は救う」という意味があります。生まれてくる子に、「神は救う」という名前を付けるには、2つの覚悟が必要でしょう。1つは、「神は救う」ということを、心の底から信じるということです。
出来事は、信じられないようなことだらけです。婚約者はすでに身ごもっているし、夢の中には主の天使が現れました。それでも、これらの出来事を通して、きっと神はわたしたちを救ってくださるのだ。だから、わたしが舞台を去ってはいけない。そう考えたのでしょう。
もう1つは、「神は救う」を意味する名前を、生まれようとしている子に付ける、その決断力です。確かに「神は救う」でしょう。けれども、この子がまさに「神は救う」そのしるしであると、人々の前にはっきり態度表明をするのは、勇気のいることです。
神が救ってくださるのは結構。でもヨセフは表舞台から立ち去りたい気持ちだったのです。そのヨセフを、「あなたが表舞台に立たないと、『神は救う』という神の計画が前に進まない。」そう促されて、ようやく妻マリアを迎え入れ、ヨセフは表舞台に立ったのでした。
クリスマス会のとき、実は中田神父は怯んでいました。まさかと思うかもしれませんが、直前に、高校生が派手なダンスを披露してくれていたので、その直後に自分が出たら、きっとしらけてしまうに違いないと、その場を逃げ出したい気分だったのです。
幸いに、飛び入りで演歌を歌ってくれる人が現れて、ひとまず会場が落ち着きました。あー、これだったらと安心して休憩時間の余興をしたのです。もし逃げ出していたら、クリスマス会としては成立したでしょうが、二度と出演依頼は来なくなっていたことでしょう。
あの場面で神がわたしに教えたかったことは、立ち去ることではなく、舞台に立つことでした。舞台に立ち、「神は救う」ということを証しなさいと、わたしの背中を押してくれたのです。全ての出演者に、「神は救う」ということを信じる。そうすれば、神は確かに救ってくださるのだと、教えてくれたのではないでしょうか。
今週の福音朗読から見えてくるヨセフの姿は、マリアと、マリアが聖霊によって身ごもった子を受け入れる姿ですが、それは言い換えると、「イエス」「神は救う」ということと、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という神が示された人間への招きを、全面的に受け入れる姿でもあります。
同じことは、ご降誕を前にしてわたしたちにも求められています。クリスマスの飾り付けを見て、「イエス」「神は救う」ということと、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という招きに、「そうです。その通りです」と、高らかに賛美の声を上げて欲しいのです。わたしたちはあなたを待ち望んでいますと、声にして欲しいのです。
もっと言えば、生活の中でも、同じ呼びかけに応えることが求められているのです。怖気づいて、人々の前で信仰を表わすことにためらいを感じるとき、「神は我々と共におられる」と、自分に言い聞かせて欲しいのです。幼子イエスが、あなたのそばにいてくれるのは、何も教会の中だけではないはずです。
幸い、今日は青方で、街頭募金が繰り広げられます。大きな声で、人々にカトリック教会の活動の一端を、知らせるまたとないチャンスです。声をかける相手に尻込みしそうになるかもしれません。そんなときはぜひ自分の心に、「イエス」「神は救う」「インマヌエル」「神は我々と共におられる」と言い聞かせて欲しいと思います。
今日主の天使によって示された招きが、ヨセフに勇気を与えたように、わたしたちも信仰を大胆に証するための勇気として与えられるように、ミサの中で願っていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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